東洋医学の実践的理論研究~人間が病むということの過程的構造からの東洋医学的治療論の研究~

人間が病むということの過程的像から、鍼灸等の問題を説いてみたいと思います。よろしくお願いいたします。

玉露を美味しく淹れる術〜技能がものになる過程的構造とは〜

2016-04-03 09:11:46 | 技術論・上達論
 玉露の美味しい淹れかたについて、技能がものになる過程的構造として捉え返してみると、一般論レベルでは全ては一ということを実感する。

 玉露というものが煎茶とは違った美味しさを持つものである。ということに気づき、玉露本来の美味しさを知ることが日本茶の美味しさにかかわる自身のイメージを豊かにしてくれる、延いては日本文化についての自身のイメージを豊かにしてくれる。との思いでこのところ玉露を美味しく淹れようと取り組んでいる。

 ネットで調べてみると、サイトによって違いはあるけれども、要するに、煎茶より多めの茶葉を使ってぬるめのお湯(40〜60度)淹れる。であり、理由は端的には、玉露というものは、煎茶の発展形であり、苦味を抑えて旨味・甘味を多くするための日陰での栽培であるから、茶葉の旨味・甘味を楽しむために、なるべく苦味の出ない低めの温度で淹れるということにある。と思えた。

 実際に、そのとおりに淹れてみると苦味が少なく旨味・甘味の強い濃厚?な味わいのあるお茶となって、煎茶とは違った美味しさのあるお茶。と思えた。

 しかし、である。お湯の量、温度の少しの違いでかなり違った味わいになりそのどれもが美味しいと思えるので、どれが玉露本来の本当の美味しさであるのかの判断がつきかねた。それだけにお茶の入れかたをどう工夫していくことが玉露を美味しく淹れる術のレベルアップ、上達であるのかがわからない。努力しようにも、どうすることが正当な努力であるのかが分かりようがない。と思えた。それだけに「ザ・玉露!」という味を一度は味わいたいとの思いとなっていった。

 これは要するに、技能にかかわる凡ゆる世界の常識である、まずはその世界での良いとされるもの、一流とされるものに触れることで、一流のイメージ=到達点のイメージをしっかりと持っての、実践のくり返しが必要ということであり、言ってみれば、駅へ行くのにその場所もわからずに、ただ歩いていても、駅へと到着することはまずあり得ない。ということである。

 さて。この玉露の美味しく淹れる術がものになるという問題は、技能・技術にかかわる問題であるのだが、専門分野の学問体系構築の道も一般的に考えるならば同じこと、同じ面がある。と思える。

 どういうことかといえば、まずは「ザ・玉露!」という像が、それなりにしっかりとなければ、玉露を淹れるという実践、試行錯誤が玉露を美味しく淹れる術をものにすることに繋がっていきようがない。のと同じように、自身の専門分野の一般論が一般性レベルででも確立されていなければ、それ以降の自身の専門分野の凡ゆる事実・論理にかかわっていく実践が、そこから現象論から構造論へと構築されていくということにはならない。結果として本質論・構造論・現象論という学問体系へと収斂していくことがない。のと同じことなのだと思えた。

 そう捉えると、玉露を美味しく淹れる術をものにする。という実践は、日本文化をより豊かに識ることだけではなしに、学問体系構築の一コマをミニマム形態で味わえることになる。のではと思う。

 明日から、鍼灸学校2年目が始まる。月日の経つのは早いものということ実感する。一日一日を大いなる量質転化につなげていくべく全力を尽くしていきたいと思う。
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