眠るということを、<生命の歴史>の(単細胞体から)クラゲ体までの時代の繰り返しと捉え返すと、これまで見えていなかったものが見えてくる。そういうことが、本質をとらえることの意義であると思える。
一昨日のバドミントンの試合、2週間ぶりぐらいの、しっかりと走り回るということであったので、筋肉痛とまでは行かないけれども、肩、肘、腰、膝等に、要するに、全身あちらこちらにこわばりを感じている。それゆえ眠っていてもぐっすりとはいかず、眠って目覚めても、何か疲労が残っている感がある。
そこで、眠っていて目が覚めると全身を軽く揺さぶるように動かし、ほぐし、伸ばししては眠るを繰り返していた。自身のアタマの中の映像としては、「睡眠とはクラゲ体までの時代の繰り返しである」からの、クラゲのようにゆらゆらとであった。
そのことの繰り返しの中で想起されたことが、眠る前にマッサージでほぐしてやると、ぐっすりと眠れる。疲労もしっかり取れるということである。
それは(ガチガチに硬くなった身体を、ぐにゃぐにゃにほぐしてやるということは)、要するに、身体をクラゲの体へとしてやることで、クラゲ体の時代の繰り返しをしっかりとスムーズに行えるため、ということであるのだ、と思えた。(マッサージの意義、特に眠る前の)
人間は、動物と違って認識的存在であるから、「そのものの何であるか」がわからなければ、ほとんどの物事を、本当にはしっかりと行えないはずである。それゆえの、本質を捉えることの大事性。
ここはもっと言えば、アリストテレスが、「ト・ティ・エーン・エイナイ」(これは日本語では、それが、そうあり続けている、そのもののなんたるか。あるいは、それをそのものをたらしめ続けている、それのなんたるか。だろうか?)を求めたことの意味・意義も、そういうことなのだ!と、思える。
眠るということを<生命の歴史>のクラゲ体までの時代の繰り返してあると捉え返すことで、「睡眠」というものがどうあるべきか?どう実践していくべきか?ということが見えてくると思えることから、そのこと(ト・ティ・エーン・エイナイ)を求めることの大事性が実感された。