「寒雀」について調べた。弁証法的に考えることの大事性痛感された。
先日、寒い日に駅のホームで雀を見かけて、昔々に恩師から見せていただいた「寒雀」の絵を思い出し、もう一度見ようとネットで調べたら、「美味」「滋味」等の表現が多く、驚かされた。
というのは、自身の「寒雀」のイメージは、「厳しい冬の寒さに必死に耐えている小さなかわいらしい雀の健気な姿」であり「生命力というものの偉大性の現れ」であっただけに、そのギャップに驚かされた。
驚きながらも、いくつかの検索結果を読んでみると、本来の「寒雀」という表現は、食鳥としての冬に美味しいということを指しての、例えば、寒ブリと同じレベルの言葉としてあった様で、それが時代を経て、「寒雀」の可愛らしさや自身のイメージであった「寒さに耐える生命の強さ」といったものへとなっていったのだと、「寒雀」という言葉にも歴史性、時代性があるのだということを知り、逆に、自身の一般教養の無さを思い知らされることとなった。
因みに、探していた「寒雀」の絵は、多分、橋本関雪によるものの様であった。
ただ、自身が恩師から見せていただいたのは、鉛筆か墨で描かれた下絵、デッサンであったので、未だに、昔に見て心に残る絵は見つけられないのであるが・・・・・・。
先日、寒い日に駅のホームで雀を見かけて、昔々に恩師から見せていただいた「寒雀」の絵を思い出し、もう一度見ようとネットで調べたら、「美味」「滋味」等の表現が多く、驚かされた。
というのは、自身の「寒雀」のイメージは、「厳しい冬の寒さに必死に耐えている小さなかわいらしい雀の健気な姿」であり「生命力というものの偉大性の現れ」であっただけに、そのギャップに驚かされた。
驚きながらも、いくつかの検索結果を読んでみると、本来の「寒雀」という表現は、食鳥としての冬に美味しいということを指しての、例えば、寒ブリと同じレベルの言葉としてあった様で、それが時代を経て、「寒雀」の可愛らしさや自身のイメージであった「寒さに耐える生命の強さ」といったものへとなっていったのだと、「寒雀」という言葉にも歴史性、時代性があるのだということを知り、逆に、自身の一般教養の無さを思い知らされることとなった。
因みに、探していた「寒雀」の絵は、多分、橋本関雪によるものの様であった。
ただ、自身が恩師から見せていただいたのは、鉛筆か墨で描かれた下絵、デッサンであったので、未だに、昔に見て心に残る絵は見つけられないのであるが・・・・・・。