家事が出来るタレントと家事がダメなタレントとを集めてのトーク番組を観た。だから自身の実力がなかなかに向上して行かないのだ、とその大事性再認識された。
昨日、鍼灸学校が試験前休み?で時間的にも気分的にも余裕があったので、久しぶりに食事中にテレビをつけたところ、家事が出来る(好きな?)タレントと家事が出来ないタレントとを集めてのトーク番組をやっていた。
その中で、家事が出来る人は美しい、美しくなっていくということが言われていた。それは清楚な感じであり、清潔感でもある……と。そこの認識の過程的構造は番組では説かれることはなかったが、端的には、相互浸透、量質転化、否定の否定……等の構造がそこにはあるということ。
そこに思いを致すと、鍼灸学校に関わる諸々のことに大きく時間をとられ、少ない時間であれもこれもせねば……と、片付け等がどうしても後回しになっていってき、散らかっているのがいつの間にか平気になりつつある現実が、ゾッとする思いとともに反省された。
単なるタレント(?)レベルであってすら、直感的にそこに気づいてそれなりに自身を創っていっているのに、一流レベルの理論的実践家であろうとする自身は果たしてどうなのか?と。
昨日、鍼灸学校が試験前休み?で時間的にも気分的にも余裕があったので、久しぶりに食事中にテレビをつけたところ、家事が出来る(好きな?)タレントと家事が出来ないタレントとを集めてのトーク番組をやっていた。
その中で、家事が出来る人は美しい、美しくなっていくということが言われていた。それは清楚な感じであり、清潔感でもある……と。そこの認識の過程的構造は番組では説かれることはなかったが、端的には、相互浸透、量質転化、否定の否定……等の構造がそこにはあるということ。
そこに思いを致すと、鍼灸学校に関わる諸々のことに大きく時間をとられ、少ない時間であれもこれもせねば……と、片付け等がどうしても後回しになっていってき、散らかっているのがいつの間にか平気になりつつある現実が、ゾッとする思いとともに反省された。
単なるタレント(?)レベルであってすら、直感的にそこに気づいてそれなりに自身を創っていっているのに、一流レベルの理論的実践家であろうとする自身は果たしてどうなのか?と。