東洋医学の実践的理論研究~人間が病むということの過程的構造からの東洋医学的治療論の研究~

人間が病むということの過程的像から、鍼灸等の問題を説いてみたいと思います。よろしくお願いいたします。

答の分からない問題に答えるということ〜教育は魂の問題として〜

2019-07-06 07:58:38 | 日記(2)
答の分からない問題にどう答えるべきかという問題が論じられ、空欄のままが正しいのだ、とされていた。そんなバカな!?と思える。

今朝の朝日新聞の教育関係のコラムで、試験で分からない問題があった時に、(学校や塾では)一般的には、空欄のままでは0点だから嘘でも何か書くように教わる。

しかしながら、教育という観点からは、適当にウソを書くように教えて良いのだろうか?分からないことは分からないと素直に認めて空欄のままが正しいのではないのか?点数よりも大事なものがあるのでは無いのか?それが(学校や塾での教育に)教育としての観点を持つということなのだ、と論じられていた(と思う。時間が無くて、ざっと目を通しただけなので......)

これは、教育というものを、一点でも試験で良い点数をとるノウハウでは無く、子供を育てるという観点からとらえ返すべき、という問題提起と考えれば、よしとすべき内容と思える。

しかしながら、その問題提起は良しとしても、その具体には「?」と思わされる。

なぜかならば、人生において正解の分かっている問題というものはそう多くない、というか、正解の分かっている問題は問題にはならないのだから......。

例えば医療の笑い話で、「体調が悪くて病院受診したら、診断基準に当てはまらないから、症状が出揃うまで=もっと悪くなるまで!?待ちましょう。」というものがあるが、分からない問題を空欄のままに、というのは自身の事実で考えれば、そういうことなのだと思わされる。

しかしながら現実には、答が分からなくても、どうにかして欲しい!と訴えている患者を前に、何もしないわけにもいかず......というのが、我々の日常であるのだから......。

そう考えると、教育を魂の問題とすれば、答の分からない問題に必死に挑むアタマの働きをこそ!と思う。

もちろん、一点でも多く取るために、平気で出鱈目を、というのは論外ではあるが......。
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答の分からない問題に答えるということ〜教育は魂の問題として〜 (自由びと)
2019-07-06 11:50:36
そう言えば昔…中学生の頃~
先生に質問されて、「分かりません!」と答えたら、
「分からない?さっき言ったはずだ…」と叱られました。

また、分からないので、黙っていると、
「何を黙っている。何か言いなさい!」
と言われた事もあります。


今の私が考えるなら~
先生の想いは以下のようなモノだったのでしょう。

『教師の話を確り聴いて、自分の頭で考えろ…』
直ぐに「分からない!」と諦めるな。
思い出せ!考えろ!
黙ったまま・無言で済ませるな・逃げるな!。


白紙の解答欄については、
分からないなら「嘘でもいいから埋めろ!」ではなく、

分からないなら、分からないなりに、
現段階で考え得る最善の解答を書け!とか…

分からない訳・想いを考えて書け!とか…
「答えられず悔しいです!」とか…

今後の自分が分からない事を、
良しとしない態度・記述を反省・書こう、とか…

たかがテスト、されどテスト!でしょうね。

もっとも…このコメントも、
テストで分からない問題に直面した時の自分心を
「教育・成長過程での求答心・魂」の問題と
するならば?!、ですが…




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