学問とは形而上の世界の問題である、ということ。
物やその機能という形而下の、では無しに、その実体の問題
例えば、コリがあってそれをほぐしてやるといった場合で考えると
コリをほぐしてやって柔らかくなる、これは大抵、またコッてくることになる
これはコルような生活をするからということがあるがそうでなくてもコることがある
これはコリといっても、それには二重性があるから、コッた実体がコッているコリと解れた実体がコッているコリと
逆からいえば、解れた状態にも二重性がある、解れた実体が解れているのと、コッた実体が解れているのと
一般的に、手技施術では、コッたものを解すのであるけれども、そのコリが機能レベルなのか、実体レベルなのかで、違った経過を辿る......
形而上の世界とは、この実体の世界の問題を論じる、思惟する、そういうことなのか?
形而上の世界ということ、分かりそうで分からない
観念論ならプラトンのイディア界。
唯物論なら、人間の認識・観念界。
形而上の世界に、形而上学の構築。
でも…難しいのは、
自己の認識・観念界である形而上世界の自覚・意識・再確認・その全体像の創出…ですね。
その時々の認識・像は描き易くても、
その自己の認識・観念界の全体像の想像は至難。
そうそう~
「形而上界と形而下界」も「二律背反」ですね。
形而上界とは、そのモノモノ自体の世界。
半分寝ぼけての、閃いたことの覚え書でした。
形而上学とは、論理の世界の問題とは思うものの.....論理一般ではなくて、もう少し抽象度の高い、一般論レベルの論理の世界......どこかで南郷先生が、哲学の対象は事実では無しに、構造論レベルの一般論が下限であると書いておられた......と知識ではあるものの
実感レベルでは、分かるようで分からない、明瞭な像化するようでしていかない、消えて行ってしまう......モヤモヤとアタマの中で像が蠢く様な......そんな感じです^^;