東洋医学の実践的理論研究~人間が病むということの過程的構造からの東洋医学的治療論の研究~

人間が病むということの過程的像から、鍼灸等の問題を説いてみたいと思います。よろしくお願いいたします。

便秘の一事例(増補2)〜身体の力を信じて待つことの大事性について〜

2017-07-19 11:28:00 | 生活の整え
便秘の対処法について考えた。身体の力を信じて待ってやることの必要性、大事性痛感する。

今回の三連休、春からの鍼灸学校の過密スケジュールの疲れを回復させ、後半の国試受験へ向けての英気を養うという意図で、二泊三日で海へ行った。

その間、環境(食を含めての)が全く変わってしまっているゆえの緊張感からか、便秘となった。環境が大きく変わると便秘となるのは自身の常なので、そのうちに……と気楽に構えていたら、今朝からは通常通りの便通となった。

しかしながら、ここで「便秘だ!どうしよう!」とココロがパニック状態となって行ったらどうであろうか?本来なら家に帰ってゆっくり休み、いつもの食生活に戻ることで旅先の緊張も解れ(胃腸の)疲れも回復し、翌朝には……であるはずが、「出ない!出ない!」となって、一晩中まともに眠ることもせずトイレへ通い続けるということにもなりかねない。

そうなっていくと、身体は一層の緊張状態となっていって、ますます便は出にくくなって……の悪循環へとなっていく可能性が大である、と思える。

以上が、一過性の便秘状態が本当の便秘へとなっていく道であるが、便秘だからと下剤を服用すると如何なることになるだろうか?おそらくは、一過性の便秘状態=病気とも言えない、緊張や疲れから大腸の生理状態がやや落ちているだけの状態への下剤であるから、本当の便秘に対する下剤よりも強烈に下痢状態にしてしまい、「これはいけない!下痢止めを飲まねば!」と、薬に依存する悪循環へともなっていきかねないと思える。

そのように考えて見ると、人間の病というもの(この便秘の事例のように)自身の身体の声を無視しての、焦ってのものがあると、これは、(南郷先生が説かれていた)花粉症の構造と同じ、でもあると思える。

人間の病は認識による病であるということとともに認識論の学びの必須性痛感する。
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