医古文読書会に参加した。鍼灸界の人々の認識が漸くに分かったと思える。
昨日、医古文読書会に参加し、講師の先生に、鍼灸の学的?世界のエピソードも交えて、「甲乙経」を丁寧に読み解いていただいた。
それ以外にも、老官山の出土資料についての黄龍祥先生の見解等々、興味深い話をしていただいた。
しかし何よりの収穫は、鍼灸界の人々の認識が、「黄帝内経」に対する異常なまでの憧れと執着の理由が、分かった。と思えたことである。
それは、具体的端的には、昔日の鍼灸の名人達人への、そして彼らがなしたであろう神業的な鍼灸治療への憧れである。のではと思える。
これは、自身のイメージとしては、昔日の剣の達人、例えば、宮本武蔵の逸話に憧れて、「五輪書」の研究をしている図であろうか。
神業的な名人芸への憧れは、どの分野であれ実践家には当然にあるものであろうし、当然あってしかるべきであると思う。敢えて言えば、自身にも、鍼灸でお金持ちになりたいとは思わないが、名人達人レベルになりたいとの思いは強烈にあるものである。遅れて鍼灸の世界の人となった自身にそれが可能であるかどうかは別としても。
しかし、である。自身の想像する通りの認識の現実があったとするならば、大きく欠けたるものがあるのでは、と思える。
それは、上達論、教育論、技術論や弁証法、認識論等の欠如であり、別言すれば、伝説がどこまで本当なのかの検討と、どうすればそこに至れるかの過程の究明の欠如と思えるのだが・・・・・・。いずれ、しっかりと説きたいと思う。
昨日、医古文読書会に参加し、講師の先生に、鍼灸の学的?世界のエピソードも交えて、「甲乙経」を丁寧に読み解いていただいた。
それ以外にも、老官山の出土資料についての黄龍祥先生の見解等々、興味深い話をしていただいた。
しかし何よりの収穫は、鍼灸界の人々の認識が、「黄帝内経」に対する異常なまでの憧れと執着の理由が、分かった。と思えたことである。
それは、具体的端的には、昔日の鍼灸の名人達人への、そして彼らがなしたであろう神業的な鍼灸治療への憧れである。のではと思える。
これは、自身のイメージとしては、昔日の剣の達人、例えば、宮本武蔵の逸話に憧れて、「五輪書」の研究をしている図であろうか。
神業的な名人芸への憧れは、どの分野であれ実践家には当然にあるものであろうし、当然あってしかるべきであると思う。敢えて言えば、自身にも、鍼灸でお金持ちになりたいとは思わないが、名人達人レベルになりたいとの思いは強烈にあるものである。遅れて鍼灸の世界の人となった自身にそれが可能であるかどうかは別としても。
しかし、である。自身の想像する通りの認識の現実があったとするならば、大きく欠けたるものがあるのでは、と思える。
それは、上達論、教育論、技術論や弁証法、認識論等の欠如であり、別言すれば、伝説がどこまで本当なのかの検討と、どうすればそこに至れるかの過程の究明の欠如と思えるのだが・・・・・・。いずれ、しっかりと説きたいと思う。