「雪駄」での鍛練行なった。論理を事実を持つことで学ぶことの必須性、痛感する。
日中の気温が25度を超える日が当たり前になって来たのにあわせて、「雪駄」を日常的に履くということを始めた。
昨年は夏の終わり頃からの「雪駄」であったとはいえ、ブログ記事を見ると9月の終わりに踵部分の交換を行なっているので、2ヶ月少しは「雪駄」での鍛練を行なった筈である。その過去の「雪駄」での鍛練の上に積み重ねる形での今年の「雪駄」での鍛練であるからか、今年は今までに無かった足先の感覚を感じる。
去年にはスーパーやショッピングセンターの滑らかな大理石やタイルの上では、滑って転倒しないように足先に意識と力を必死に込め続けるだけであった(それでも時には滑って転倒していた)ものが、今年も当初は同じ状態であったものが、立ち方、歩き方、走り方を様々に工夫して行う余裕が出来てきた。
具体的には、必死にこわごわ歩くだけであったものが、肩の力を抜いて(転倒すまいとして、足のみか全身に、特に上体に力が満々で、空手や手技療法術の初心者のごとくであったので……)とか、氷の上にスケート靴で立って歩くことイメージして滑っていく方向に滑るに任せてバランスを取ってみるとか、指圧技の手先への体重の乗せ方、意識の込め方を足で再現すべく歩くとか……である。
そのような実践の中で痛感されたことは、足の不器用さ、足の感覚の鈍さ(足からの像の薄さ)であるが、この足からの像の不足、像の薄さというものは、去年には感じることの無かったこと(この足からの像の薄さは、この春に本格的に木登りに取り組み出して感じていたことでもあるが……)であるだけに、足の器用さと感覚する力の発展が持てたゆえなのでは無いか、とも思う。
またこのことは、自身の足の実力(器用さと感覚する力)は哺乳類体の足のレベルではあっても、猿類体の足のレベルには不足であり、まして猿類体の四つ手としての足のレベルにははるかに及ばない、ということでもあると思える。
何よりも、「雪駄」の鍛練による足の実力(器用さと感覚する力)のレベルアップの事実を持つことで、哺乳類体から猿類体への発展における四肢の発展として、南郷先生や瀬江先生が説かれることをそのミニマム形態の一コマというレベルでは実感出来たのではないか、それゆえその発展の像を単なる薄っぺらな知識からそれなりの厚みのある像へと転化出来たのではないか、また説かれることの理解へ僅かながらでも近づけたのではないか、と思える。
かくの如くの学びを、自身の尊敬する南郷先生を始めとする先生方の説かれることに対して、歴史上の先人の説くことに対して行うことが、本当に学ぶということ(少なくとも自身にとっては唯一と言って良い、実力の向上を持つ可能性のある方法)であると思える。自身を実験体としての事実を持つことでの学びに全力を尽くして行きたい。
磨き上げられた滑らかな大理石?の床。学校の往き復りに雪駄で歩くのが日課、という以上にお楽しみ。
自身にとっての「雪駄」は、あくまでも鍛練具であるのだから、粋とか野暮とかは……と思う。
日中の気温が25度を超える日が当たり前になって来たのにあわせて、「雪駄」を日常的に履くということを始めた。
昨年は夏の終わり頃からの「雪駄」であったとはいえ、ブログ記事を見ると9月の終わりに踵部分の交換を行なっているので、2ヶ月少しは「雪駄」での鍛練を行なった筈である。その過去の「雪駄」での鍛練の上に積み重ねる形での今年の「雪駄」での鍛練であるからか、今年は今までに無かった足先の感覚を感じる。
去年にはスーパーやショッピングセンターの滑らかな大理石やタイルの上では、滑って転倒しないように足先に意識と力を必死に込め続けるだけであった(それでも時には滑って転倒していた)ものが、今年も当初は同じ状態であったものが、立ち方、歩き方、走り方を様々に工夫して行う余裕が出来てきた。
具体的には、必死にこわごわ歩くだけであったものが、肩の力を抜いて(転倒すまいとして、足のみか全身に、特に上体に力が満々で、空手や手技療法術の初心者のごとくであったので……)とか、氷の上にスケート靴で立って歩くことイメージして滑っていく方向に滑るに任せてバランスを取ってみるとか、指圧技の手先への体重の乗せ方、意識の込め方を足で再現すべく歩くとか……である。
そのような実践の中で痛感されたことは、足の不器用さ、足の感覚の鈍さ(足からの像の薄さ)であるが、この足からの像の不足、像の薄さというものは、去年には感じることの無かったこと(この足からの像の薄さは、この春に本格的に木登りに取り組み出して感じていたことでもあるが……)であるだけに、足の器用さと感覚する力の発展が持てたゆえなのでは無いか、とも思う。
またこのことは、自身の足の実力(器用さと感覚する力)は哺乳類体の足のレベルではあっても、猿類体の足のレベルには不足であり、まして猿類体の四つ手としての足のレベルにははるかに及ばない、ということでもあると思える。
何よりも、「雪駄」の鍛練による足の実力(器用さと感覚する力)のレベルアップの事実を持つことで、哺乳類体から猿類体への発展における四肢の発展として、南郷先生や瀬江先生が説かれることをそのミニマム形態の一コマというレベルでは実感出来たのではないか、それゆえその発展の像を単なる薄っぺらな知識からそれなりの厚みのある像へと転化出来たのではないか、また説かれることの理解へ僅かながらでも近づけたのではないか、と思える。
かくの如くの学びを、自身の尊敬する南郷先生を始めとする先生方の説かれることに対して、歴史上の先人の説くことに対して行うことが、本当に学ぶということ(少なくとも自身にとっては唯一と言って良い、実力の向上を持つ可能性のある方法)であると思える。自身を実験体としての事実を持つことでの学びに全力を尽くして行きたい。

