鍼の得気、響とは何か?それは必要なのだろうか?
昨日、温泉に行った。冬の到来とともに疼きだした古傷の治療のために、であったが、無加熱の源泉(37度前後)に入ったので、入っている時には、温まる、汗がでる、解れてくる等の効いた感覚は全くと言っていいほどに無く、露天風呂ということもあって、夕刻から吹き出した冬の風の冷たさを感じながらの、およそ1時間であった。
が、昨日は学校帰りの電車で猛烈な睡魔に襲われ、夜はぐっすりと眠れ、今朝起きると古傷の痛みも無く、であった。要するに、非常なる効果があったと思え、同時に、こういう効き方こそが言うなれば達人技=日本文化的な最高の効き方ではないか、と思われた。例えば、最高の美味は無味の味、であるという北大路魯山人の言に見る様に。
その様に考える、考えられると、鍼の得気、響とは何なのか?と改めて考えさせられる。そもそも得気、響とは何か?それは治療=治るということとどう関わるのか?それは必要なのだろうか?と。
引き続き考えて行きたい。
湯原温泉の砂湯、も効いた感が無いが非常によく効く温泉、と思う。
昨日、温泉に行った。冬の到来とともに疼きだした古傷の治療のために、であったが、無加熱の源泉(37度前後)に入ったので、入っている時には、温まる、汗がでる、解れてくる等の効いた感覚は全くと言っていいほどに無く、露天風呂ということもあって、夕刻から吹き出した冬の風の冷たさを感じながらの、およそ1時間であった。
が、昨日は学校帰りの電車で猛烈な睡魔に襲われ、夜はぐっすりと眠れ、今朝起きると古傷の痛みも無く、であった。要するに、非常なる効果があったと思え、同時に、こういう効き方こそが言うなれば達人技=日本文化的な最高の効き方ではないか、と思われた。例えば、最高の美味は無味の味、であるという北大路魯山人の言に見る様に。
その様に考える、考えられると、鍼の得気、響とは何なのか?と改めて考えさせられる。そもそも得気、響とは何か?それは治療=治るということとどう関わるのか?それは必要なのだろうか?と。
引き続き考えて行きたい。
