「三分間指圧」を現実化すべく取り組んでいる。対象の構造に分け入る実力の不足痛感する。
このところ短時間での施術の必要性、それが可能で無ければ足元をすくわれかねないという意味での必要性、痛感することが何度かあって、何度目かの「三分間指圧」を現実化すべくの取り組み行なっている。
自身にとって「三分間指圧」は達人の闘い、施術の現実態である(もともとは「浪越指圧」で有名な浪越徳次郎氏の「三分間指圧」であったが、そこに自身の達人レベルの技としての指圧技と達人レベルの技の使い方としての施術のイメージを重ねての、である)ので、その時点での自身の闘い、施術の極限形態として現実化すべく取り組んで来たのであるが……自身の実力不足から、なかなかに現実化出来ないで来ていた。
しかしながら、近頃ようやくにして、例えば先日の「棘上筋機能不全」の問題として取り上げた事例の如くに、「それなりに病気レベルの状態の、自覚のある患者を三分間以下で治す」ということが時に可能となって来た。
それゆえの、現実問題として必要性があるというだけでは無しにの、「三分間指圧」の現実化への取り組みであるのだが、その様な目的意識で日々の施術を行い出すと、自身の対象の構造に分け入る実力の無さ痛感する。
具体的には、これまでは「症状としてあるものの原因はだいたいこのあたりの問題」というアバウトな捉えかたであった、でしか無かったのだが、もっとピンポイントに「この筋に症状が出ているということは、別のこの筋に硬結があるから、この関節のずれがあるから……」とやって行かねば、行けねばならない、のにその実力がない。これは別言すれば、自身の病態把握が弁証法レベルであり、認識論レベルではないということだと……と考えると、自身の実力不足を嘆くのではなく、現在の弁証法レベルの病態把握から認識論レベルの病態把握へと深めて行けば良いだけのことであると……。
このところ短時間での施術の必要性、それが可能で無ければ足元をすくわれかねないという意味での必要性、痛感することが何度かあって、何度目かの「三分間指圧」を現実化すべくの取り組み行なっている。
自身にとって「三分間指圧」は達人の闘い、施術の現実態である(もともとは「浪越指圧」で有名な浪越徳次郎氏の「三分間指圧」であったが、そこに自身の達人レベルの技としての指圧技と達人レベルの技の使い方としての施術のイメージを重ねての、である)ので、その時点での自身の闘い、施術の極限形態として現実化すべく取り組んで来たのであるが……自身の実力不足から、なかなかに現実化出来ないで来ていた。
しかしながら、近頃ようやくにして、例えば先日の「棘上筋機能不全」の問題として取り上げた事例の如くに、「それなりに病気レベルの状態の、自覚のある患者を三分間以下で治す」ということが時に可能となって来た。
それゆえの、現実問題として必要性があるというだけでは無しにの、「三分間指圧」の現実化への取り組みであるのだが、その様な目的意識で日々の施術を行い出すと、自身の対象の構造に分け入る実力の無さ痛感する。
具体的には、これまでは「症状としてあるものの原因はだいたいこのあたりの問題」というアバウトな捉えかたであった、でしか無かったのだが、もっとピンポイントに「この筋に症状が出ているということは、別のこの筋に硬結があるから、この関節のずれがあるから……」とやって行かねば、行けねばならない、のにその実力がない。これは別言すれば、自身の病態把握が弁証法レベルであり、認識論レベルではないということだと……と考えると、自身の実力不足を嘆くのではなく、現在の弁証法レベルの病態把握から認識論レベルの病態把握へと深めて行けば良いだけのことであると……。