随分のご無沙汰です。
南郷先生の『全集第三巻』が届き読み進めていくと、「気」の問題をどう考えるべきかということが、ここに全て解かれている、説かれている、との思いとなっていった。同時に、認識論の必須性も痛感された。
端的には、気の問題は形而上の問題として扱わねばならないのだと。
現在、気とは機能である、と鍼灸学校では、要するに形而下の問題である、がそれはまだ解明されてはいない、と。
また、昔々、古代中国という時代の人類は、気を目に見えない微小な物質と考えていた、とも教わったが、それは観念論的発想だと思われる。
端的には、唯物論的には、「気」は最初からあるものでは無しに人類が、世界の何かを捉えて「気」としたのであって、である。
目に見えないもの、人間が感覚出来ない何物かの像が描かれるようになった、それを東洋思想の「気」であるとしたのであって、
「気」という概念、観念?がまずもってあってでは無い(東洋医術の世界では)、と思われる。
そのように、「気」を原点に帰って考えてみるならば、現在の様に形而下の問題として考えるのでは無しに、形而上の問題として考えて行く必要があるのだと......。
それには、認識論の学びが必須のものとなっていかねばならないのだが、さて東洋医学、医術の世界で、それは望むべくも無い、とも思われる。
個人的な諸々の問題も終息しつつあり、コロナの問題が終息する頃には、ブログも再開出来るかと思っています。
よろしくお願いします。