「看護の生理学」を読み返し始めることで、「気血津液」をいかに捉えるかについての、示唆をいただけた。と思う。
1週間後に、実力テスト(解剖生理、経絡経穴、東洋医学の内容を含むもの)が実施されるので、かつ、その得点が基準に満たないと課題が出されその提出を求められるということなので、解剖生理の復習としての意味もあって、「看護の生理学(1〜3)」(薄井坦子、瀬江千史共著 現代社)を読み返し始めている。
「看護の生理学」を読んでいくと、そこでは必ず、人間の解剖と生理が生命の歴史から、「生命体にとって◯◯とは何か」を踏まえて「人間にとっての◯◯の特殊性」を論じて、その上での「人間の◯◯の構造とはたらき」を論じる。というプロセスで明らかにされている。
この「看護の生理学」の、人間の解剖と生理の解明のしかたを読んで、「?」「・・・・・・」「!」との思いとなった。
そこに説(解)かれる対象の構造への、人間の解剖と生理の構造への分け入りかたに、自身の「気血津液」の構造への分け入りかたをオーバーラップさせて視ると、自身の足らざるところが見えてくるように思えた。
どういうことかと言えば、自身の「気血津液」の構造への分け入りかたは、決して、「気血津液」の構造へと分入っているのではない。ということに気づかされた。
自身が「気血津液」の構造に分入っていると思い込んで思いを廻らしていたことは、「気血津液」の構造に分け入ろうとしているのでは無く、良く言っても、「気血津液」というものの人類の歴史上の捉え方の変遷について、あれこれと思い廻らしていただけであり、決して、「気血津液」そのものの歴史性をあれこれと思っているのでもなければ、「気血津液」の現実的な事実をあれこれと思っているのでも無い。のだと思えた。
「気血津液」というものは、それが観念論的な把握であるとしても、対象たる人間の内の何ものかを「気血津液」として捉えたものであり、それだからこその、観念論的な理論であっても、東洋医学が実践の、実際の治療の役に立つ=効果がある。のだと思う。
であれば、まずは、生命の歴史を踏まえての、「気血津液」自体の、生成発展の歴史性を問うことが必要なのでは?との思いとなった。
1週間後に、実力テスト(解剖生理、経絡経穴、東洋医学の内容を含むもの)が実施されるので、かつ、その得点が基準に満たないと課題が出されその提出を求められるということなので、解剖生理の復習としての意味もあって、「看護の生理学(1〜3)」(薄井坦子、瀬江千史共著 現代社)を読み返し始めている。
「看護の生理学」を読んでいくと、そこでは必ず、人間の解剖と生理が生命の歴史から、「生命体にとって◯◯とは何か」を踏まえて「人間にとっての◯◯の特殊性」を論じて、その上での「人間の◯◯の構造とはたらき」を論じる。というプロセスで明らかにされている。
この「看護の生理学」の、人間の解剖と生理の解明のしかたを読んで、「?」「・・・・・・」「!」との思いとなった。
そこに説(解)かれる対象の構造への、人間の解剖と生理の構造への分け入りかたに、自身の「気血津液」の構造への分け入りかたをオーバーラップさせて視ると、自身の足らざるところが見えてくるように思えた。
どういうことかと言えば、自身の「気血津液」の構造への分け入りかたは、決して、「気血津液」の構造へと分入っているのではない。ということに気づかされた。
自身が「気血津液」の構造に分入っていると思い込んで思いを廻らしていたことは、「気血津液」の構造に分け入ろうとしているのでは無く、良く言っても、「気血津液」というものの人類の歴史上の捉え方の変遷について、あれこれと思い廻らしていただけであり、決して、「気血津液」そのものの歴史性をあれこれと思っているのでもなければ、「気血津液」の現実的な事実をあれこれと思っているのでも無い。のだと思えた。
「気血津液」というものは、それが観念論的な把握であるとしても、対象たる人間の内の何ものかを「気血津液」として捉えたものであり、それだからこその、観念論的な理論であっても、東洋医学が実践の、実際の治療の役に立つ=効果がある。のだと思う。
であれば、まずは、生命の歴史を踏まえての、「気血津液」自体の、生成発展の歴史性を問うことが必要なのでは?との思いとなった。