天動説と地動説について改めて考えてみると、東洋医学を如何に学ぶか、その完成された姿は如何になるのかのイメージが漠然とではあるが描けるように思える。
東洋医学の学びを始める以前には、また始めた当初にあっては、自身の「現在の東洋医学に学ぶことで科学的な東洋医学の体系を創造する。」ということのイメージは、天動説から地動説へであり、東洋医学に含まれる誤謬は、その大元となるものは、古代中国という時代性ゆえの、世界の、人間の構造というものが充分に解明されていなかったからの、その分かり得無い部分を想像、空想で補ったがゆえのその結果としての誤謬(例えば「五臓六腑図」)であるのだから、現代の西洋医学の提示する解剖・生理の事実から東洋医学の内容を検討し、取捨選択して修正して行くことで、それが果たされるのではないか!?というものであった。
しかしながら、実際に、その作業に取りかかってみると、ことはそう単純ではない。ということを痛感させられることとなっていった。
例えば、東洋医学では、「気の流れ」を人間の健康にとって大事なことであるとして、重要視するが、西洋医学的には、東洋医学で説くところの「気の流れ」というものは存在しない。人体の中を循環するのは「血液」であり「体液」である。ということになる。
では、「気の流れ」や「気」というものを捨て去ればいいのか?といえば、ことはそう単純なことではない。ということを痛感させられる。
理由は大きく二つ。一つは、「気」や「気の流れ」というものを空想、妄想として捨て去ってしまうと、東洋医学の実践の指針となるものが、鍼灸の施術の指針となるものが失われてしまい、コリがあるところ、痛いところに鍼を刺し、灸を据える、という対症療法レベルのことしか出来無くなってしまう。
もう一つは、逆に、「気」や「気の流れ」をあるものとして施術を行うと、効果的な治療ができる。別言すれば、「気」や「気の流れ」というものが、施術(=実践)の指針として大いに役にたつという面がある。ということである。
それゆえに、空想や妄想の類と思えることも、簡単に捨て去るのでは無しに、東洋医学が「気」や「気の流れ」としてといているものは、自身では空想、妄想の類と思えることは、本当な何なのか!?とその意義を問うことが必要である。と思えるようになっていった。
そういう観点から、今、天動説、地動説という問題を考えてみると、「天動説は誤謬であるけれども、一定の条件においては、例えば、温室の設計に役立つという条件では、地動説よりも天動説のほうがより真理である。役立つ。」と三浦つとむがどこかで、ディーツゲの相対的誤謬の例として、説いていたことが想起される。
同様に、東洋医学は鍼灸等の施術の指針となる。という条件では、西洋医学より、より正しい。となりうるのではと思える。
要するに、東洋医学を科学的に学んでいくということは、西洋医学との対比で、誤謬である部分を、単純に捨て去っていくことなのではなく、実践上の、施術をする上での有効性という観点からも検討して、誤謬として説かれるが有効であるものは、本当は何なのか?を究明していくことが必要なのではと思える。
結果として、地動説としての東洋医学の体系と表裏をなすものとして天動説としての東洋医学の体系というものへとなっていくのではと思える。ことことは引き続き考えていきたい。
東洋医学の学びを始める以前には、また始めた当初にあっては、自身の「現在の東洋医学に学ぶことで科学的な東洋医学の体系を創造する。」ということのイメージは、天動説から地動説へであり、東洋医学に含まれる誤謬は、その大元となるものは、古代中国という時代性ゆえの、世界の、人間の構造というものが充分に解明されていなかったからの、その分かり得無い部分を想像、空想で補ったがゆえのその結果としての誤謬(例えば「五臓六腑図」)であるのだから、現代の西洋医学の提示する解剖・生理の事実から東洋医学の内容を検討し、取捨選択して修正して行くことで、それが果たされるのではないか!?というものであった。
しかしながら、実際に、その作業に取りかかってみると、ことはそう単純ではない。ということを痛感させられることとなっていった。
例えば、東洋医学では、「気の流れ」を人間の健康にとって大事なことであるとして、重要視するが、西洋医学的には、東洋医学で説くところの「気の流れ」というものは存在しない。人体の中を循環するのは「血液」であり「体液」である。ということになる。
では、「気の流れ」や「気」というものを捨て去ればいいのか?といえば、ことはそう単純なことではない。ということを痛感させられる。
理由は大きく二つ。一つは、「気」や「気の流れ」というものを空想、妄想として捨て去ってしまうと、東洋医学の実践の指針となるものが、鍼灸の施術の指針となるものが失われてしまい、コリがあるところ、痛いところに鍼を刺し、灸を据える、という対症療法レベルのことしか出来無くなってしまう。
もう一つは、逆に、「気」や「気の流れ」をあるものとして施術を行うと、効果的な治療ができる。別言すれば、「気」や「気の流れ」というものが、施術(=実践)の指針として大いに役にたつという面がある。ということである。
それゆえに、空想や妄想の類と思えることも、簡単に捨て去るのでは無しに、東洋医学が「気」や「気の流れ」としてといているものは、自身では空想、妄想の類と思えることは、本当な何なのか!?とその意義を問うことが必要である。と思えるようになっていった。
そういう観点から、今、天動説、地動説という問題を考えてみると、「天動説は誤謬であるけれども、一定の条件においては、例えば、温室の設計に役立つという条件では、地動説よりも天動説のほうがより真理である。役立つ。」と三浦つとむがどこかで、ディーツゲの相対的誤謬の例として、説いていたことが想起される。
同様に、東洋医学は鍼灸等の施術の指針となる。という条件では、西洋医学より、より正しい。となりうるのではと思える。
要するに、東洋医学を科学的に学んでいくということは、西洋医学との対比で、誤謬である部分を、単純に捨て去っていくことなのではなく、実践上の、施術をする上での有効性という観点からも検討して、誤謬として説かれるが有効であるものは、本当は何なのか?を究明していくことが必要なのではと思える。
結果として、地動説としての東洋医学の体系と表裏をなすものとして天動説としての東洋医学の体系というものへとなっていくのではと思える。ことことは引き続き考えていきたい。