鍼治療を受けた。東洋医学的視点では、人間を二重性(陰陽?)において視る、と思えた。
昨日、自身の腰痛治療と東洋医学的視点での鍼治療をいただけるということで、n先生の治療を受けた。(「肝血虚証」に対する本治法と主に腰痛に対しての標治法との事であった。)治療の大まかな順序しては、問診票の記入→問診→ 望診→切診・脈診→問診→証の決定→鍼→評価→鍼→評価→……→鍼→評価。であったと思う、思うというのは、n先生のアタマの中では違うかもしれない、と思えるから。
上述の治療の過程で、大きく二つの視点での施術があった、と思う。一つは、本来の証の決定→治療穴の決定とその治療であり、もう一つは、自身の訴える症状に対しての診断(病状の把握)→治療穴の決定とその治療である、と思えた。
かつそのそれぞれに二重性が、例えば前者であれば、本来の証と現在の証が、後者であれば、根本原因と現時点の症状がある。
そう考えると、上述のごとくに大雑把に捉え返してみても、単なる腰痛や肩凝りとして現象している=患者が訴えていること、にも、何重もの重層構造が存在する、ということに気づかされる。
であるから、それらの重層構造を内に孕む症状を一重のものとして理解し、施術するのでは……と思う。
このように述べると、それは東洋医学に限ったことでは無いのではないか?西洋医学でも、対象療法に対して原因療法だとか根治療法だとかというように二重性で捉えている筈だ。との反論が当然にあると思う。
しかしながら、ほとんどの西洋医学の立場のかたの言う対象療法と原因療法の二重性とは、病気を診るのに病気の二重性を視ているに過ぎない。それに対して東洋医学での病気を診る二重性とは、まずは人間と病の二重性であり、そのそれぞれでの二重性なのであって、言葉の上では同じく二重性であっても、その中身=構造は大きく違う、と思う。
昨日、自身の腰痛治療と東洋医学的視点での鍼治療をいただけるということで、n先生の治療を受けた。(「肝血虚証」に対する本治法と主に腰痛に対しての標治法との事であった。)治療の大まかな順序しては、問診票の記入→問診→ 望診→切診・脈診→問診→証の決定→鍼→評価→鍼→評価→……→鍼→評価。であったと思う、思うというのは、n先生のアタマの中では違うかもしれない、と思えるから。
上述の治療の過程で、大きく二つの視点での施術があった、と思う。一つは、本来の証の決定→治療穴の決定とその治療であり、もう一つは、自身の訴える症状に対しての診断(病状の把握)→治療穴の決定とその治療である、と思えた。
かつそのそれぞれに二重性が、例えば前者であれば、本来の証と現在の証が、後者であれば、根本原因と現時点の症状がある。
そう考えると、上述のごとくに大雑把に捉え返してみても、単なる腰痛や肩凝りとして現象している=患者が訴えていること、にも、何重もの重層構造が存在する、ということに気づかされる。
であるから、それらの重層構造を内に孕む症状を一重のものとして理解し、施術するのでは……と思う。
このように述べると、それは東洋医学に限ったことでは無いのではないか?西洋医学でも、対象療法に対して原因療法だとか根治療法だとかというように二重性で捉えている筈だ。との反論が当然にあると思う。
しかしながら、ほとんどの西洋医学の立場のかたの言う対象療法と原因療法の二重性とは、病気を診るのに病気の二重性を視ているに過ぎない。それに対して東洋医学での病気を診る二重性とは、まずは人間と病の二重性であり、そのそれぞれでの二重性なのであって、言葉の上では同じく二重性であっても、その中身=構造は大きく違う、と思う。