前回は、認識論の学びの第一歩として、人間の自身の「唐揚げ」を食べるに関わる映像を追うことからの、「問いかけ」の映像と反映の映像を区別して見て取ることの必要性。
それができていないから、人間の認識も動物の認識も一緒くたになってしまっている、との反省から、まず、認識の原点から脳が誕生した魚の段階から見て、となるも、問いかけのない動物段階の反映像というものがよくイメージできずに、その前の反映像のない段階へと戻っての、クラゲ = 脳のない段階の反映像(これは物の例え)を見ようとして、それがようやく自分なりにイメージし得たところであった。
そこから、どうにか問いかけのない魚の段階の反映像が描けて、「人間は ? 」というところまでであった。
さて、いよいよ本題の「唐揚げ」に関わる認識 = 映像というところへ入っていくのであるが、その前に、動物の単なる反映の映像とは違う、人間の認識 =「問いかけ的」反映としての映像の直接の原点である動物から人間の中間項(トマス・アクィナス!)に当たる猿の認識について、軽く触れておきたい。
端的に結論から述べると、猿以前の、魚から猿までの脳が描く反映像は、一重の映像であったものが、猿に至っては、二重の映像になる、二重の映像を描く実力が生まれてきた、ということである。
二重の一つは、魚以来の、対象のそのままの反映であるところの明瞭な映像。もう一つは、やがては人間の「問いかけ」へとなっていくだろう不明瞭な映像(ここは不明瞭な映像が「問いかけ」像へとなっていくということなのか ?それとも、不明瞭な像と明瞭な像とのギャップに「 ?」となったその頭の働きが、「問いかけ」ということへとなっていくのか ?......自身には未だよくわかっていない......それが猿の認識に軽く触れておくとした理由なのであるが......ここは引き続き学んでいきたい)
猿の認識に軽く触れて、肝心の人間の=自身の「唐揚げ」に関わる認識 = 映像を追うつもりであったが、ここがもう少しわからねば「問いかけ」ということがわからない、と思える。
(この項、続く)