東洋医学の実践的理論研究~人間が病むということの過程的構造からの東洋医学的治療論の研究~

人間が病むということの過程的像から、鍼灸等の問題を説いてみたいと思います。よろしくお願いいたします。

猿は二重の像を描く実力を培っていく〜明瞭と不明瞭〜

2024-11-13 07:12:35 | リハビリ室閉鎖中の日記
 前回は、認識論の学びの第一歩として、人間の自身の「唐揚げ」を食べるに関わる映像を追うことからの、「問いかけ」の映像と反映の映像を区別して見て取ることの必要性。

 それができていないから、人間の認識も動物の認識も一緒くたになってしまっている、との反省から、まず、認識の原点から脳が誕生した魚の段階から見て、となるも、問いかけのない動物段階の反映像というものがよくイメージできずに、その前の反映像のない段階へと戻っての、クラゲ = 脳のない段階の反映像(これは物の例え)を見ようとして、それがようやく自分なりにイメージし得たところであった。

 そこから、どうにか問いかけのない魚の段階の反映像が描けて、「人間は ? 」というところまでであった。

 さて、いよいよ本題の「唐揚げ」に関わる認識 = 映像というところへ入っていくのであるが、その前に、動物の単なる反映の映像とは違う、人間の認識 =「問いかけ的」反映としての映像の直接の原点である動物から人間の中間項(トマス・アクィナス!)に当たる猿の認識について、軽く触れておきたい。

 端的に結論から述べると、猿以前の、魚から猿までの脳が描く反映像は、一重の映像であったものが、猿に至っては、二重の映像になる、二重の映像を描く実力が生まれてきた、ということである。

 二重の一つは、魚以来の、対象のそのままの反映であるところの明瞭な映像。もう一つは、やがては人間の「問いかけ」へとなっていくだろう不明瞭な映像(ここは不明瞭な映像が「問いかけ」像へとなっていくということなのか ?それとも、不明瞭な像と明瞭な像とのギャップに「 ?」となったその頭の働きが、「問いかけ」ということへとなっていくのか ?......自身には未だよくわかっていない......それが猿の認識に軽く触れておくとした理由なのであるが......ここは引き続き学んでいきたい)

 猿の認識に軽く触れて、肝心の人間の=自身の「唐揚げ」に関わる認識 = 映像を追うつもりであったが、ここがもう少しわからねば「問いかけ」ということがわからない、と思える。

(この項、続く)

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