時の経つのは早いもので鍼灸国家試験が終わってからすでに一週間が過ぎてしまった。(……ので、もっと頑張らねばとの思いがある。)、が一方で、この一週間の間に『学城 第16号』(現代社)を読み始めることができ、河原での足裏鍛錬、木登り、突と蹴の準備運動を始めることもでき、何よりも(鍼灸学校通学が無くなったので)毎日8時間程度の睡眠とそれなりにまともな食を摂ることができている、と本格的な再始動へ向けての準備も整いつつある。のであるから、自身にしては上出来と思えないではない。
さて、今後の予定として、自身の認識を大きく変えてくれるような、発展が持てるような新たな実践をと思うのだが、とともに、鍼灸学校とそれを補う形で行ってきた三年間の学びの総括ということを是非におこなっておかねばならない、と思える。
それは端的には、東洋医学とは何か(正確には、東洋医術とは何か)、鍼灸とは何か、ということを説くこと(自分なりにではあっても)と思える。
そしてその為には、南郷先生が、先生以前の旧き武道・武道論から如何に学んでいかれたかの方法論に学ぶことが、まず何よりも必要なことであると思える。
そうでなければ、ただヤタラメッタラと東洋医学や鍼灸に関わる古典といわれる資料や事実を集めて並べ立てていったところで、これまでの鍼灸の世界の先達と同じ轍を踏むこととなっていくしかない、有体にいえば、結局、東洋医学というものは科学的とは相入れないものであって……と成っていくしかないであろうことは、明白である、と思える。
別言するならば、学問の王道に学ぶこと無しに、情熱のみで東洋医学や鍼灸に挑んでいって何とかなるものならば、すでに鍼灸の世界の偉大な先達がそれは成したであろう筈である。と思える。
さて、今後の予定として、自身の認識を大きく変えてくれるような、発展が持てるような新たな実践をと思うのだが、とともに、鍼灸学校とそれを補う形で行ってきた三年間の学びの総括ということを是非におこなっておかねばならない、と思える。
それは端的には、東洋医学とは何か(正確には、東洋医術とは何か)、鍼灸とは何か、ということを説くこと(自分なりにではあっても)と思える。
そしてその為には、南郷先生が、先生以前の旧き武道・武道論から如何に学んでいかれたかの方法論に学ぶことが、まず何よりも必要なことであると思える。
そうでなければ、ただヤタラメッタラと東洋医学や鍼灸に関わる古典といわれる資料や事実を集めて並べ立てていったところで、これまでの鍼灸の世界の先達と同じ轍を踏むこととなっていくしかない、有体にいえば、結局、東洋医学というものは科学的とは相入れないものであって……と成っていくしかないであろうことは、明白である、と思える。
別言するならば、学問の王道に学ぶこと無しに、情熱のみで東洋医学や鍼灸に挑んでいって何とかなるものならば、すでに鍼灸の世界の偉大な先達がそれは成したであろう筈である。と思える。
しかしながら、自身の現在イメージしている「伏龍流鍼灸術」から一般的治療(本治)と特殊的治療(標治)の二重性を加味した形での東洋医学、鍼灸術の概念規定を、と思う。