昨日は、「人間は何を食べるべきか ?」を問うことの必要な根本的理由。として、生命体は、その生命体の体を創っている食をまともに取り続けることなしには、その実存すら危うくなっていく。
にもかかわらず、本能の大半を失っていってしまっている人間は、それを知ることなしには、必要な「食」を食べるとは限らない、と説いた。
本日は、そこを踏まえての、食の原点、そもそも食とは何か ? ということを、「単細胞生命体の食」ということにスポットライトを当てて説く予定であったが、予定変更しての、本日は一休みしての書論。武術論。
書を描くということについて。いついかなる時にも、瞬時に、最高の、とまではいかなくても、7〜8割方の出来のものが描ければならない、と。
これは例えば、「護身武術」ということを考えるならば、「いついかなる時にも」ということは、そのように自身の実力を使えるように創るものであり、そのように創らねば、そのように使えるはずもなく、である。
これは護身と試合の違いを考えれば、より明白になる。試合と言った場合には、例えば、前もって春と秋に大会があって、それを目指して、少なくとも1ヶ月前くらいには、精神的にも整えていって、闘える精神状態へとなしていっての、試合 = 闘いということになる。
逆から言えば、そうしなければならない。ほどに、日常生活が弛んでいるというか、平和いっぱいというか......ということにもなるのであるが。
それに対して、護身ということを考えるならば、それは自身が思わぬ時に、いきなりやってくる闘いの場面ということになる。
それゆえに、いついかなる時にも対処する心構え、認識の状態が求められる。
と同時に、試合の、お互いに数年単位で鍛え上げられた技での勝負と違って、街の不良のカツアゲであったり、薬物使用者の錯乱であったり、高校生が振り回した重たいバッグであったり......に対処しての、我が身を守るであるから、闘って勝つことも必要でない、瞬間的に訪れるその闘いの場に、対処して、無事に切り抜けられればいい、闘うよりも躱し逃げることができれば良いもの、であるから、日常レベルプラスアルファの技があればこと足りる。
要するに、技としては闘いとしては、素人の喧嘩 + アルファの技と術で十分なのであるが、同時に、瞬時に訪れる闘いの場に対応しての、闘う心となれることが求められる。
それだけに、そこの修行というものが求められるというものである。
そう考えるならば、自身の書というものも、その修行の一環として、位置付けて行かねばと思う。そして、それが自身の目指す。「武人書画」がというものへの一歩である、とも。