竹山晋一郎の唯物弁証法は、そもそものその学びかたが不味かったがゆえに、鍼灸を弁証法的に解明することが敵わなかったのだ、と思える。
竹山晋一郎の何が不味かったのかといえば、弁証法を弁証法として学んでしまったということであり、竹山晋一郎自身も、鍼灸の実践を欠いているがゆえに、自身の弁証法的な究明が、悪く(有体に?)いえば一般論に終始しているとの自覚がおそらくはあったのであろう、『漢方医術復興の理論』発刊の後、42歳で鍼灸師免許の取得しての、であったがそれ以上の理論的、弁証法的な深まりは持てなかったが如くである。
結果として、最後まで鍼灸に弁証法を知識的に当てはめるということに四苦八苦して見るものの、対象の構造に分け入っての弁証法的解明は敵わなかった。ということなのではないかと思える。
しかしながら、竹山晋一郎の志を鍼灸の弁証法による究明ではなくして、弁証法による革命と考えるならば、「経絡治療」を誕生させて一世を風靡し、後々まで影響を与えたのであるから、本望であったのかもしれない、とも思える。
竹山晋一郎の何が不味かったのかといえば、弁証法を弁証法として学んでしまったということであり、竹山晋一郎自身も、鍼灸の実践を欠いているがゆえに、自身の弁証法的な究明が、悪く(有体に?)いえば一般論に終始しているとの自覚がおそらくはあったのであろう、『漢方医術復興の理論』発刊の後、42歳で鍼灸師免許の取得しての、であったがそれ以上の理論的、弁証法的な深まりは持てなかったが如くである。
結果として、最後まで鍼灸に弁証法を知識的に当てはめるということに四苦八苦して見るものの、対象の構造に分け入っての弁証法的解明は敵わなかった。ということなのではないかと思える。
しかしながら、竹山晋一郎の志を鍼灸の弁証法による究明ではなくして、弁証法による革命と考えるならば、「経絡治療」を誕生させて一世を風靡し、後々まで影響を与えたのであるから、本望であったのかもしれない、とも思える。
【竹山晋一郎氏への伏龍の評価について。
竹山晋一郎氏の時代性を考えるならば、もっと高く評価しても然るべき、と思う。
竹山晋一郎氏が唯物弁証法によって鍼灸の科学化を志した時代にあっては、唯物弁証法とは、社会科学や学問・哲学の世界の問題であり、その唯物弁証法を使っての鍼灸(=「はり」や「やいと」という、滅びようとしている迷信や民間療法とたいして違わない)の科学化ということが、どれだけ世間の常識から外れていたかということを、かつそれを「経絡治療」という形に結実させるのに大きく貢献したということを、現在の我々からの評価ではなしに、しっかりとそういう時代性でのということを踏まえての評価であるべきと思える。
のみならず、鍼灸の世界の理論といえば、西洋医学的あるいは中医学的以外には現在に至るも「経絡治療」か、その亜流しか存在しないということからも、その革新性、先進性は......と思える。(二天)】