さて、肝心の「東洋医学とは何か」の自身の像の中身。
東洋医学的診断ということを実際に授業で体験してみて思ったことは、東洋医学においては、その診断の過程においても結果として出てくる診断においても、病の外的な要因というものはほとんど問題とされず、病の原因はほとんど全てが患者の身体の状態の問題であるし、治療の目的もまた乱された、もしくは異常となった身体の状態を整える。ということであるのだなあ。ということであった。
そして、それと対比して、西洋医学の病の原因を特定してその原因に働きかけるということ。例えば、インフルエンザウィルス感染症にかかれば、インフルエンザウィルスの有無を特定して、タミフルを使ってインフルエンザウィルスをやっつける。という像が思い浮かんだ。
この二つの像を比較して考えてみると、東洋医学も西洋医学も、同じく患者に対して働きかけているのだけれども、東洋医学では、患者が病へとなっていったのは人間の方の問題である。人間の生理的状態が正常でなくなっていったから、病になっていってしまったのだから、人間の生理機能を回復させてやれば病も回復していく。と考える。
それに対して西洋医学では、患者が病へとなっていったのは、病の原因の方の問題である。病の原因となるものが人間を侵していった結果が病なのだから、病の原因を除去すれば、病は治っていく。と考える。と思えた。
要するに病というものを、人間と病の原因との間に起こる問題である。と考えると、病の原因を除去すれば病が治るとするのが西洋医学で、人間は本来、病の原因があっても病へとはなっていかないものであり、人間の生理状態が正常でなくなっていくことで、病の原因に侵されて病へとなっていってしまうのだから、人間の生理状態を正常化させてやれば病は治る。とするのが東洋医学なのではないか。との思いとなっていった。
そして、病の問題を人間と病の原因の二重性の問題と捉えて、そのどちらを主体に関わっていくのかが西洋医学と東洋医学の分かれ目である。との発想の原点は、引用で紹介した「学問と宗教の歴史的一般性」ということであるし、病の問題を人間と病因の二重性の問題なのではと閃いた?時に、その最初はぼんやりとしてはっきりしなかった像を明確なものへとしていってくれたものも、「学問と宗教の歴史的一般性」の内容であった。と思えるからの、「東洋医学とは何か(1/2)」での長文の引用であった。
ただ、念のために述べておくと、引用の文章の学問=西洋医学、宗教=東洋医学とはならないのであり、引用の文章から、病を人間を主に捉えるか病因を主に捉えるかの、問題(病)を人間と対象(病の原因)との二重性として捉える。という発想を得たということであり、それ以上ではない。誤解があるといけないので念のため。
要するに、以上のごとき思いが東洋医学的診断の授業を受けた結果として浮かんできて、その思いを「学問と宗教の一般的歴史性」ということにからめて、あれこれと考えてみると、これまで何冊もの東洋医学や中国の思想、中国の歴史に関わる書を読んでも、自身の手技療法術の実践、鍼灸学校での鍼灸の学び等等を考えてみても、少しも明確になって来なかった「東洋医学とは何か」ということが、それはもしかしたら「人間の病というものを、身体の生理状態の異常や衰え、それにともなっての外邪に侵された状態と捉えて、鍼灸や漢方等によって、身体の生理状態の異常や衰えを回復させることで病を治そうとするもの。」なのではないかと、自身のアタマの中の「東洋医学とは何か」の像が明確になった。ということである。
アタマの中で考えているときには、壮大なる大発見!と自画自賛していたのだが、文章化してみると未だしの感は拭えない。ただ、東洋医学の事実だけを云々するのでは無しに、人類はどのように考えて東洋医学を誕生させたのかを、人類はどのように考えて西洋医学を誕生させたのか、との対比で考えるということは、もう少し深めていくだけの価値のある視点であると思える。引き続き考えていきたい。
東洋医学的診断ということを実際に授業で体験してみて思ったことは、東洋医学においては、その診断の過程においても結果として出てくる診断においても、病の外的な要因というものはほとんど問題とされず、病の原因はほとんど全てが患者の身体の状態の問題であるし、治療の目的もまた乱された、もしくは異常となった身体の状態を整える。ということであるのだなあ。ということであった。
そして、それと対比して、西洋医学の病の原因を特定してその原因に働きかけるということ。例えば、インフルエンザウィルス感染症にかかれば、インフルエンザウィルスの有無を特定して、タミフルを使ってインフルエンザウィルスをやっつける。という像が思い浮かんだ。
この二つの像を比較して考えてみると、東洋医学も西洋医学も、同じく患者に対して働きかけているのだけれども、東洋医学では、患者が病へとなっていったのは人間の方の問題である。人間の生理的状態が正常でなくなっていったから、病になっていってしまったのだから、人間の生理機能を回復させてやれば病も回復していく。と考える。
それに対して西洋医学では、患者が病へとなっていったのは、病の原因の方の問題である。病の原因となるものが人間を侵していった結果が病なのだから、病の原因を除去すれば、病は治っていく。と考える。と思えた。
要するに病というものを、人間と病の原因との間に起こる問題である。と考えると、病の原因を除去すれば病が治るとするのが西洋医学で、人間は本来、病の原因があっても病へとはなっていかないものであり、人間の生理状態が正常でなくなっていくことで、病の原因に侵されて病へとなっていってしまうのだから、人間の生理状態を正常化させてやれば病は治る。とするのが東洋医学なのではないか。との思いとなっていった。
そして、病の問題を人間と病の原因の二重性の問題と捉えて、そのどちらを主体に関わっていくのかが西洋医学と東洋医学の分かれ目である。との発想の原点は、引用で紹介した「学問と宗教の歴史的一般性」ということであるし、病の問題を人間と病因の二重性の問題なのではと閃いた?時に、その最初はぼんやりとしてはっきりしなかった像を明確なものへとしていってくれたものも、「学問と宗教の歴史的一般性」の内容であった。と思えるからの、「東洋医学とは何か(1/2)」での長文の引用であった。
ただ、念のために述べておくと、引用の文章の学問=西洋医学、宗教=東洋医学とはならないのであり、引用の文章から、病を人間を主に捉えるか病因を主に捉えるかの、問題(病)を人間と対象(病の原因)との二重性として捉える。という発想を得たということであり、それ以上ではない。誤解があるといけないので念のため。
要するに、以上のごとき思いが東洋医学的診断の授業を受けた結果として浮かんできて、その思いを「学問と宗教の一般的歴史性」ということにからめて、あれこれと考えてみると、これまで何冊もの東洋医学や中国の思想、中国の歴史に関わる書を読んでも、自身の手技療法術の実践、鍼灸学校での鍼灸の学び等等を考えてみても、少しも明確になって来なかった「東洋医学とは何か」ということが、それはもしかしたら「人間の病というものを、身体の生理状態の異常や衰え、それにともなっての外邪に侵された状態と捉えて、鍼灸や漢方等によって、身体の生理状態の異常や衰えを回復させることで病を治そうとするもの。」なのではないかと、自身のアタマの中の「東洋医学とは何か」の像が明確になった。ということである。
アタマの中で考えているときには、壮大なる大発見!と自画自賛していたのだが、文章化してみると未だしの感は拭えない。ただ、東洋医学の事実だけを云々するのでは無しに、人類はどのように考えて東洋医学を誕生させたのかを、人類はどのように考えて西洋医学を誕生させたのか、との対比で考えるということは、もう少し深めていくだけの価値のある視点であると思える。引き続き考えていきたい。