昨日、「茶淹」で淹れかたを教えていただきながら玉露を淹れていただいた。それとともにお茶にかかわる自身のこれまでの疑問にも答えていただき、楽しい時間を過ごさせていただいた。
また自身でネット等で調べたこと例えば、「玉露の味はアミノ酸の味」「煎茶よりも低温、人肌くらいのお湯で淹れる」等々の知識と自身の煎茶にかかわる知識・経験とから淹れた玉露の味が、「茶淹」で淹れていただいた玉露の味と一致した、淹れかたの上手い下手はあるにしても一般的には一致したことで、一般教養の意義を実感できたことも、想定外のことであったが一つの収穫であった。
さて、本題の取穴について。経穴の取穴法について学び実践するとそこには大いなる矛盾があると思えた。
鍼灸学校の実技の学びの大きな柱となるものに鍼灸の実体の技とともに経穴の取穴の問題がある。経穴の学びとしては、まず文化遺産として伝わっている経絡経穴の名称を覚えそれとともに経穴の取りかた、取穴法を学ぶ。
例えば、足三里の取穴であれば、犢鼻(膝全面、膝蓋靭帯外方の陥凹部にある経穴)と解渓(足関節前面中央の陥凹部、長拇趾伸筋腱と長趾伸筋腱の間にある経穴)の間を16寸として、その間を結ぶ線上の犢鼻の下方3寸に取穴する。とまずは知識的に学ぶ。
問題はここからである。そうやって学んだ取穴法に従って実際の人体で、まずは自身でいずれは患者さんで取穴するのであるが、取穴法というものはあくまでも経穴の場所を探すための一つの便宜上の方法でしかなく、それを手がかりに違和感や響き、痛み、こり、むくみ等々のある場所を探すことで経穴を探すことが求められる。
そうやって取穴した経穴に鍼を打つのであるが、手指で取穴して「経穴だ!」とした部位に鍼を打ってもイコール鍼の経穴とならない響きがない場合が往々にしてある。ということになる。
このことに関しては「鍼灸の経穴と指圧の経穴とはそもそも違うものだ。」とする先生と「鍼灸も指圧も経穴としては同じであるけれどもそれぞれの手技の特殊性から、簡単には指圧が広い範囲に作用しているのに対して鍼の場合は文字通りピンポイントであるということから両者が一致しない場合があるのだ。」とする先生があるが・・・・・・。
それはさておき、取穴法を学んで取穴して鍼を打つということを続けるうちに手指で取穴した経穴が鍼でも響く経穴へと次第次第になっていくことになる。
しかし、である。以上の過程を振り返って経穴というものを、取穴ということを真面目に考えてみるならば、通常は自身で取穴した経穴の正当性を証明するものは、仮に取穴法をいかに真面目に学んで正確に行っても、自身の中には無いということに気がつく。
別言すれば、自身で取穴した経穴の正当性は先生や先輩に「足三里はここで良いですか?」とチェックしてもらってはじめてその正当性が保証されるということになる。
このことは大変なことなのである。が、人類が歴史的に形成してきた技というものを習得する場合に常につきまとう矛盾である。
より詳細にいえば、人間は目的意識的にしか行動出来ないのであるから目的像がしっかりと描けないことには、意識的なしっかりとした実践は出来がたい存在である。にもかかわらず、そのよくわからない、像がしっかりとは描けないものに対して、正しいと言われれば正しいと思うしかないし間違っていると言われれば間違っていると思うしかないという実践に、場合によっては数年間もの永きにわたって、熱意を持って取り組んでいかねばなら無い。のであるから。
例えば、空手の突を学ぶ場合に、突く位置は胸の高さで、立ち方は肩幅で、拳の握り方は・・・・・・等々と技の形を教わった通りに知識的に正確に行ってみても、行っているつもりでもあっても、必ずと言っていいほどに先生、先輩から「立ち方!」「拳!」「引き手!」等々と注意をされるものであるし、その繰り返し、認識のやりとりの中で次第次第に技はものになっていくものである。
これは別の例で言えば、玉露の味ということすらそうである。つまり玉露を淹れるのに湯の温度、量、淹れる時間等々は様々に可能であり、それによって様々な味となるのであるから、玉露の本来の味を知っている人に味を見てもらうことでしか、もしくはこれが玉露の味をいうものを味わってみてその像にしたがって判断することでしか、その正当性は保証されないということと同じことである。
そうであるからの、経穴の取穴法がしっかりと存在しているのにもかかわらずの、学校等での師弟関係による学びの必要性である。と思える。知識として学んでそれで完結してしまうものであるならば殊更に教わるということは不要で、独学で十分!となるはずである。
本来ならば技の大半が他人の手による鍼や艾である鍼灸においては、技を自身の五体を素材として創り上げねばならない狭義の手技療法術(按摩、マッサージ、指圧、整体等々)と違って独学の可能性は十分にある筈なのであるが、鍼灸を学ぶものの一般教養の不足と経穴とは何かの概念規定が成されていないことによって、その学びは独学では不可能であるということが定説?となってしまっている様である。
曰く「鍼灸学校だけでは鍼灸は学べない!」と。
また自身でネット等で調べたこと例えば、「玉露の味はアミノ酸の味」「煎茶よりも低温、人肌くらいのお湯で淹れる」等々の知識と自身の煎茶にかかわる知識・経験とから淹れた玉露の味が、「茶淹」で淹れていただいた玉露の味と一致した、淹れかたの上手い下手はあるにしても一般的には一致したことで、一般教養の意義を実感できたことも、想定外のことであったが一つの収穫であった。
さて、本題の取穴について。経穴の取穴法について学び実践するとそこには大いなる矛盾があると思えた。
鍼灸学校の実技の学びの大きな柱となるものに鍼灸の実体の技とともに経穴の取穴の問題がある。経穴の学びとしては、まず文化遺産として伝わっている経絡経穴の名称を覚えそれとともに経穴の取りかた、取穴法を学ぶ。
例えば、足三里の取穴であれば、犢鼻(膝全面、膝蓋靭帯外方の陥凹部にある経穴)と解渓(足関節前面中央の陥凹部、長拇趾伸筋腱と長趾伸筋腱の間にある経穴)の間を16寸として、その間を結ぶ線上の犢鼻の下方3寸に取穴する。とまずは知識的に学ぶ。
問題はここからである。そうやって学んだ取穴法に従って実際の人体で、まずは自身でいずれは患者さんで取穴するのであるが、取穴法というものはあくまでも経穴の場所を探すための一つの便宜上の方法でしかなく、それを手がかりに違和感や響き、痛み、こり、むくみ等々のある場所を探すことで経穴を探すことが求められる。
そうやって取穴した経穴に鍼を打つのであるが、手指で取穴して「経穴だ!」とした部位に鍼を打ってもイコール鍼の経穴とならない響きがない場合が往々にしてある。ということになる。
このことに関しては「鍼灸の経穴と指圧の経穴とはそもそも違うものだ。」とする先生と「鍼灸も指圧も経穴としては同じであるけれどもそれぞれの手技の特殊性から、簡単には指圧が広い範囲に作用しているのに対して鍼の場合は文字通りピンポイントであるということから両者が一致しない場合があるのだ。」とする先生があるが・・・・・・。
それはさておき、取穴法を学んで取穴して鍼を打つということを続けるうちに手指で取穴した経穴が鍼でも響く経穴へと次第次第になっていくことになる。
しかし、である。以上の過程を振り返って経穴というものを、取穴ということを真面目に考えてみるならば、通常は自身で取穴した経穴の正当性を証明するものは、仮に取穴法をいかに真面目に学んで正確に行っても、自身の中には無いということに気がつく。
別言すれば、自身で取穴した経穴の正当性は先生や先輩に「足三里はここで良いですか?」とチェックしてもらってはじめてその正当性が保証されるということになる。
このことは大変なことなのである。が、人類が歴史的に形成してきた技というものを習得する場合に常につきまとう矛盾である。
より詳細にいえば、人間は目的意識的にしか行動出来ないのであるから目的像がしっかりと描けないことには、意識的なしっかりとした実践は出来がたい存在である。にもかかわらず、そのよくわからない、像がしっかりとは描けないものに対して、正しいと言われれば正しいと思うしかないし間違っていると言われれば間違っていると思うしかないという実践に、場合によっては数年間もの永きにわたって、熱意を持って取り組んでいかねばなら無い。のであるから。
例えば、空手の突を学ぶ場合に、突く位置は胸の高さで、立ち方は肩幅で、拳の握り方は・・・・・・等々と技の形を教わった通りに知識的に正確に行ってみても、行っているつもりでもあっても、必ずと言っていいほどに先生、先輩から「立ち方!」「拳!」「引き手!」等々と注意をされるものであるし、その繰り返し、認識のやりとりの中で次第次第に技はものになっていくものである。
これは別の例で言えば、玉露の味ということすらそうである。つまり玉露を淹れるのに湯の温度、量、淹れる時間等々は様々に可能であり、それによって様々な味となるのであるから、玉露の本来の味を知っている人に味を見てもらうことでしか、もしくはこれが玉露の味をいうものを味わってみてその像にしたがって判断することでしか、その正当性は保証されないということと同じことである。
そうであるからの、経穴の取穴法がしっかりと存在しているのにもかかわらずの、学校等での師弟関係による学びの必要性である。と思える。知識として学んでそれで完結してしまうものであるならば殊更に教わるということは不要で、独学で十分!となるはずである。
本来ならば技の大半が他人の手による鍼や艾である鍼灸においては、技を自身の五体を素材として創り上げねばならない狭義の手技療法術(按摩、マッサージ、指圧、整体等々)と違って独学の可能性は十分にある筈なのであるが、鍼灸を学ぶものの一般教養の不足と経穴とは何かの概念規定が成されていないことによって、その学びは独学では不可能であるということが定説?となってしまっている様である。
曰く「鍼灸学校だけでは鍼灸は学べない!」と。