鍼実技の授業で直刺・斜刺・横刺を学びました。先ず、伝わっているものをしっかりと教わり・学ぶことの大事性痛感します。
昨日の鍼実技の授業で、直刺・斜刺・横刺、旋撚術教わり、それぞれの角度(垂直、60~30度、0度)で、また深さ(1,5cm、横刺は2cm)で行えるよう練習しました。
直刺・斜刺と旋撚術については、旋撚を母指の動きで行うという事に少し苦労したものの、それ程の難しさありませんでした。
ところが横刺に関しては、先生の見本は、皮一枚の深さで0度で2cm程度、鍼が入っているのに、何度やっても、どう工夫してみても3~5度位の角度の斜刺になってしまいました。
困り果てて先生に泣きついたところ、接皮の角度、深さ、押手のおさえ方、鍼体のおさえる位置、刺手での刺入の仕方を丁寧に教えていただきました。その通りにやって見ると、あれ程に苦労してなおかつどうしても出来なかった横刺が嘘の横に出来ました。
これが、歴史的に形成されて伝わっている技=文化遺産を教わり・学ぶことの意義であるとそのことの大事性痛感しました。
別の言い方をするならば、おそらくはその道の(鍼術の)名人達人が工夫を重ね、何世代にも亘っての実践・研究の結果として創り上げて来たであろう技を自力で一から創りだすなどは通常あり得ないことであるから、基本となる技の一つでさえそうなのであるから、まずは歴史的に伝わっている技をしっかりと教わり・学ぶことで自身のものとして行くことが実技の学びでまず成すことであると思えます。
そういう意味で、実体としての技とその観念論的な解釈・説明とは分けて考えてやって、如何に観念論的な馬鹿げた解釈が一緒になっていても、そこから直ちに実体としての技までも誤りとしてしまってはならないと思えます。
その点が唯物論的な立場で鍼灸の実技を学ぶ上での注意しなければならないところではと思えます。
昨日の鍼実技の授業で、直刺・斜刺・横刺、旋撚術教わり、それぞれの角度(垂直、60~30度、0度)で、また深さ(1,5cm、横刺は2cm)で行えるよう練習しました。
直刺・斜刺と旋撚術については、旋撚を母指の動きで行うという事に少し苦労したものの、それ程の難しさありませんでした。
ところが横刺に関しては、先生の見本は、皮一枚の深さで0度で2cm程度、鍼が入っているのに、何度やっても、どう工夫してみても3~5度位の角度の斜刺になってしまいました。
困り果てて先生に泣きついたところ、接皮の角度、深さ、押手のおさえ方、鍼体のおさえる位置、刺手での刺入の仕方を丁寧に教えていただきました。その通りにやって見ると、あれ程に苦労してなおかつどうしても出来なかった横刺が嘘の横に出来ました。
これが、歴史的に形成されて伝わっている技=文化遺産を教わり・学ぶことの意義であるとそのことの大事性痛感しました。
別の言い方をするならば、おそらくはその道の(鍼術の)名人達人が工夫を重ね、何世代にも亘っての実践・研究の結果として創り上げて来たであろう技を自力で一から創りだすなどは通常あり得ないことであるから、基本となる技の一つでさえそうなのであるから、まずは歴史的に伝わっている技をしっかりと教わり・学ぶことで自身のものとして行くことが実技の学びでまず成すことであると思えます。
そういう意味で、実体としての技とその観念論的な解釈・説明とは分けて考えてやって、如何に観念論的な馬鹿げた解釈が一緒になっていても、そこから直ちに実体としての技までも誤りとしてしまってはならないと思えます。
その点が唯物論的な立場で鍼灸の実技を学ぶ上での注意しなければならないところではと思えます。