『哲学・論理学原論〔新世紀編〕』(南郷継正著 現代社)を読み返している。そのことで、弁証術の姿が次第次第に明確になっていく様に思えるとともに、自身の二十四時間、関わるあるあらゆるものを弁証術の学びとして行わねば、とその必要性痛感される。
現在、『哲学・論理学原論』を読み返しているのであるが、そこに説かれている弁証術=古代弁証法=(ソクラテス・)プラトン・アリストテレスの弁証法(διαλεκτική)というものが、単なる問答法や討論ということに止まらず、凡そあらゆる物事の修得に必須のことである、と思える。
例えば、手技療法においてならば、形の上では毎回毎回同じくの指圧であっても、実態としては前回の自己を否定しての、別言すれば前回の自己を他者としてそこを少しでも超えるべく、であるし、右手と左手の指圧技の互いに他者を僅かでも上回ろうとして、のであるし、鍼灸を学ぶならば、当初は素手での手技療法を超えるべくであり、次第次第に鍼灸の実力が増すに従って、鍼灸を超えるべくの素手での手技療法である、と言った形での素手での手技療法と鍼灸との闘争......である。
また、日常生活でいえば、コーヒーを淹れるのにの右手と左手のであるし、料理を作る場合においての前回よりも少しでも美味しくであったり、外食した場合の自身の料理と外食の料理との闘争......である。
かくのごとくに「独りきりでの二人問答」としてはもちろん「独りきりの二人問答」的に、自身の生活過程の全てに亘って行なっていくことが、合宿による大闘論という場を持ち得ない自身にとっては、必須のこと、と『哲学・論理学原論』を再読していく中で、弁証法というものの姿としてイメージされる。
現在、『哲学・論理学原論』を読み返しているのであるが、そこに説かれている弁証術=古代弁証法=(ソクラテス・)プラトン・アリストテレスの弁証法(διαλεκτική)というものが、単なる問答法や討論ということに止まらず、凡そあらゆる物事の修得に必須のことである、と思える。
例えば、手技療法においてならば、形の上では毎回毎回同じくの指圧であっても、実態としては前回の自己を否定しての、別言すれば前回の自己を他者としてそこを少しでも超えるべく、であるし、右手と左手の指圧技の互いに他者を僅かでも上回ろうとして、のであるし、鍼灸を学ぶならば、当初は素手での手技療法を超えるべくであり、次第次第に鍼灸の実力が増すに従って、鍼灸を超えるべくの素手での手技療法である、と言った形での素手での手技療法と鍼灸との闘争......である。
また、日常生活でいえば、コーヒーを淹れるのにの右手と左手のであるし、料理を作る場合においての前回よりも少しでも美味しくであったり、外食した場合の自身の料理と外食の料理との闘争......である。
かくのごとくに「独りきりでの二人問答」としてはもちろん「独りきりの二人問答」的に、自身の生活過程の全てに亘って行なっていくことが、合宿による大闘論という場を持ち得ない自身にとっては、必須のこと、と『哲学・論理学原論』を再読していく中で、弁証法というものの姿としてイメージされる。