MJHA(日本を再び健康な国に)〜東洋医学の実践的理論研究~

MJHA(日本を再び健康な国に)という志で、食・運動(姿勢)・休息(睡眠)に関わる問題等を論理的に説きます。

古典(史料)至上主義の意味すること〜ウーシアを捉えることの意義〜

2016-07-17 06:34:35 | 鍼灸理論・東洋医学
古典(史料)を至上のものとする考えかたの意味するものを考えると、ウーシア(=そのものの何物であるか)を捉えることの大事性痛感する。

昨日、同僚の柔整師と話していて東洋医学とは何かを説明する中で、古典(史料)至上主義の鍼灸師のありかたを例えて、熱心なキリスト教信者の様なものと説いた。

端的には、熱心なキリスト教信者が『聖書』に書かれていることを全て正しいとし、物事の正否の判断も、自身の論の正しさの根拠も、決して世界の、人間の現実のありかた、その論理性から説くのでは無しに、「『聖書』にそう書かれている。」という一点を拠り所とするようなものである。それを例えば、『黄帝内経』に対して行っているのだ、と。

では、それの何が不味いのだろうか?端的には、その書物に説かれていることが如何に正しくとも、世界は無限であるのに対して、書物は如何にそれが大部であっても有限であるから、直接に説かれていること以外は、その書物からは分かりようが無い。ということであり、それゆえ、書物に説かれていないことは、分からない。とするか、無理矢理こじつけてウソの解釈をするしかない。ということになっていくと思う。

もちろんその書物が、対象とするもののウーシア(=そのものの何物であるか)を捉えるレベルにあるならば、また話は別なのではあるが・・・・・・。しかしながら、『黄帝内経』は、社会的、時代的制約からそのレベルに無い。それゆえ、我々は、『黄帝内経』から「黄帝内経のウーシア=東洋医学のウーシア」を学びとる作業をする必要がある。と思う。

そして、「黄帝内経のウーシア=東洋医学のウーシア」を捉えることが出来れば、『黄帝内経』に説かれていないことも、『黄帝内経』の筆者(達?)が生きていれば説いたであろう如くに説くことが出来る筈である。と思う。

こう述べてもイメージの描けない方には、例えば、マンガ『ゼロ The Man of the creation』の主人公の天才贋作者ゼロが、贋作をする画家、例えばピカソ、の描いていない作品を、認識実体ともにピカソに成りきれる実力ゆえに、あたかもピカソ本人が描いたが如くに、ピカソ本人以上にピカソらしく描ける。ということをイメージしていただければ、と思う。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 鍼術と気〜森羅万象の構造を... | トップ | 東洋医学とは何か(1/2)... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。