梅雨明け以降、夏らしい暑い日が続いている。おかげで河原での鍛練を連日行えている。その意義について。
夏の河原での鍛練、河原を裸足で駆け回ったり、立木を掌、手刀、正拳、小手で叩いたり、木によじ登りぶら下がったり、ということは、自身にとっては二重の意義がある。と捉えている。
端的には、まともに手技療法術(鍼灸術を含んで)を実践し上達していけるための実体を(媒介的には認識をも)創るため、と自身の実体を整えてくれる鍛練のありかたを一般的な運動のありかたとして捉え返し、それを手技療法術の指針とするためにの二重性である。
ここは、二重の意義の両方に説明を要する。と思うが、前者についてはいくらか触れたこともあると思うので、今回は後者について簡単に。
十年以上も前に南郷先生が『綜合看護』の連載で「夏の足裏鍛練」について説いてくださり、そのことを実践するとともに諸々の御著書に学んでいくことで、「生命の歴史の繰り返しが、人間の生活過程を整えるには必須である。」と説(解)かれているのでは、ということに気づき、それ以来「生命の歴史の繰り返し」ということが、何を為すにしてもの自身のアタマを離れることはなかったのであるが、ある時に、「手技療法術というものも、術者が患者に生命の歴史を繰り返させることなのでは?」とのヒラメキ?があった。
それとともに、「自身が鍛練で行なっていることを一般的な運動のありかたとして捉え返し、それを謂わば他動運動として患者に施すことが出来れば、しっかりと患者を整えることが出来るのでは無いか?それが可能となって行けば、自身のオリジナルの手技療法術の体系が創出出来るに違い無い!」との思いとなったのだが、自身にとっての夏の河原での鍛練の二重の意義の一つは、そういうことである。
夏の河原での鍛練、河原を裸足で駆け回ったり、立木を掌、手刀、正拳、小手で叩いたり、木によじ登りぶら下がったり、ということは、自身にとっては二重の意義がある。と捉えている。
端的には、まともに手技療法術(鍼灸術を含んで)を実践し上達していけるための実体を(媒介的には認識をも)創るため、と自身の実体を整えてくれる鍛練のありかたを一般的な運動のありかたとして捉え返し、それを手技療法術の指針とするためにの二重性である。
ここは、二重の意義の両方に説明を要する。と思うが、前者についてはいくらか触れたこともあると思うので、今回は後者について簡単に。
十年以上も前に南郷先生が『綜合看護』の連載で「夏の足裏鍛練」について説いてくださり、そのことを実践するとともに諸々の御著書に学んでいくことで、「生命の歴史の繰り返しが、人間の生活過程を整えるには必須である。」と説(解)かれているのでは、ということに気づき、それ以来「生命の歴史の繰り返し」ということが、何を為すにしてもの自身のアタマを離れることはなかったのであるが、ある時に、「手技療法術というものも、術者が患者に生命の歴史を繰り返させることなのでは?」とのヒラメキ?があった。
それとともに、「自身が鍛練で行なっていることを一般的な運動のありかたとして捉え返し、それを謂わば他動運動として患者に施すことが出来れば、しっかりと患者を整えることが出来るのでは無いか?それが可能となって行けば、自身のオリジナルの手技療法術の体系が創出出来るに違い無い!」との思いとなったのだが、自身にとっての夏の河原での鍛練の二重の意義の一つは、そういうことである。