東洋医学の実践的理論研究~人間が病むということの過程的構造からの東洋医学的治療論の研究~

人間が病むということの過程的像から、鍼灸等の問題を説いてみたいと思います。よろしくお願いいたします。

『医療実践方法を論理の学に(1)』を読む〜科学的ということの凄さを実感させてくれる書〜

2017-08-15 08:30:31 | 鍼灸理論・東洋医学
 『医療実践方法を論理の学に(1)』(聖瞳子・高遠雅志・九條静・北條亮著 現代社白鳳選書)を読んだ。「科学的」ということの凄さ、深み、その必要性を痛感する。

 前期末試験の「臨床医学各論」の不出来を受けて、「病気一般論」を、さらに表象レベル、具体レベルの「病気一般論」をしっかりとイメージしておくことの必要性に思い至り、『ナースが視る病気』(薄井坦子著 現代社)から、『暮らしの医学』(責任編集 山田和夫 大門出版)、『旧版 臨床医学各論』(東洋療法学校協会編 医歯薬出版株式会社)にあたり、『医療実践論を論理の学に(1)』を読み返した。

 そのことで、「病気一般」のイメージが一般的だけでは無しに、具体のレベルの病気というものの、例えば「糖尿病」というものの生成・発展・成熟・衰退・消滅として、正規分布の曲線としてイメージされていった、させてくれていったのであるが、それとともに、科学的な理論の凄さ実感され、それだけに科学的であるということの必要性を再認識させられた。

 例えば、『医療実践方法論を論理の学に(1)』の「第2章 繰り返す消化性潰瘍の一例」で「人間の体は、正常な生理構造が保たれるような生活をしていなければ、正常な生理構造は保たれない」ということが説かれる。この論理の凄さ、意義は、実際に日々患者に接して治療にあたっている方ならば分かっていただけると思うが、逆に、言葉の上でだけ病気というものを考えている方には、「何を当たり前のことを!」となってしまうであろうが、患者も治療者も、この一事が本当に分かっていないから、病気というものを降って湧いた災難と捉えてしまうのであるし、対症療法で症状が消えれば治ったものとしてしまうのである、何よりも生活の整えを抜きにして病気が治るものと錯覚してしまう(本当は、生活を変えることへの感情的な反発からそう錯覚したいということなのかもしれないが……)のであると、そこに説かれる論理に感心させられる。
 これは、手を切って血が出たというように目に見える怪我(病気)とその原因のつながりと違って、目に見えないつながりであるだけに、経験的にはなかなかに分かり難いことであるし、仮に経験の何百年もの積み重ねの結果として分かっていったとしても、例えば「養生法」というもの、それは経験の積み重ねの結果の伝承によるものであるだけに、そのような生活が良いのだとは言えても、根拠をもってのもので無いだけに、その正しさを他人に信じさせることは、もしかしたら自身で信じ抜くことも、大変困難であると、対象の持つ問題を科学的に、その構造に分け入ることで解くこと、そしてそれを科学的に説くことの大事性を痛感させられる。

 『医療実践方法を論理の学に(1)』で説かれることは鍼灸の世界においても常識となっていかねばならないこと、と思える。(それ以前に、あるいはそれとともに科学的な東洋医学の体系の確立が望まれるのはもちろんであるが……)
 この書は、病気というもの、診断というもの、そして治療というものが本来どのようなものなのか、どのように捉えるべきものなのかということと共に、科学的ということの大事性、凄さということを実感レベルでわからせてくれる書であると思う。

 
ブログ読者に、これから鍼灸師へとなっていこうとする方がもしおられるのならば、是非にの一読をおすすめしたい書である。

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