東洋医学の実践的理論研究~人間が病むということの過程的構造からの東洋医学的治療論の研究~

人間が病むということの過程的像から、鍼灸等の問題を説いてみたいと思います。よろしくお願いいたします。

『その悩み、哲学者がすでに......』を読む(補2)〜「東洋医学の学びの総括」で書くべきこと〜

2018-05-10 07:50:26 | 鍼灸学校の学びの総括あるいは鍼灸・東洋医学とは何か
『その悩み、哲学者がすでに答えを出しています』(小林昌平著 文響社)、自身の書きたかったこと、書くべきこと、ズバリの題名である、と興味津々で読んだ。

先日、新聞に『その悩み、哲学者がすでに答えを出しています』という本の広告があった。その題名を見て、「これが自身の東洋医学、鍼灸の学びのスタートであり、ゴールである、とともにそのプロセスでもある。」との思いとなった。(自身においては、哲学者=南郷継正ではあるのだが......)

そう思えると、「東洋医学の学びの総括」は一般的にはこの一言で終わり、であり具体は本ブログの千日余の間の記事である、との思いとなって、もう結論は出ているとの思いとなっていって、ブログ更新の為の原稿を書く情熱が消えていって......。

しかしながら、一般論と具体があっても、それを繋いでいくところの構造論の展開こそが、との思いもあるし、鍼灸学校三年間の学びに一区切りつけて新たなスタートをとの思いもある。

近々、それなりの形にまとめて、と思う。

ついでに、『その悩み、哲学者がすでに......』の感想を端的に述べるならば、一般論としては、自身の悩み(問題)の答えを歴史上の哲学者の論理(=人類の最高の英知)に尋ねて、「(例えば)もしアリストテレスが鍼灸を専門としたら自身が疑問に思うことをどの様に考えて、どのような結論を出し、どのように実践していくだろうか?」等と考えていくことで、その解決の指針を得るということは正当な方法であると思う。

しかしながら、その中身として説かれる、この問題はあの哲学者の論理、別の問題はまた別の哲学者の論理というように、自身のさまざまな悩みを、その時々のその問題を上手く解いてくれる哲学者の論理で解く、では自身のアタマが様々な哲学者の論理のモザイク体として出来上がっていってしまって、おそらくは少しも論理的なアタマへとは出来上がっていかない。(と思える)

大事なことは、自身の最高と思える哲学者の論理で、例えば<弁証法>であらゆる問題を解く、でなければならない。(と思える)

あるいは、哲学の歴史を一人の哲学者のアタマの働きの発展の歴史として捉えて、であろうか?

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