「押し手」について考えると、全てに筋を通すということの大事性痛感する。
現在の鍼灸実技パートナーの同級生は手技療法術の経験のまったく無い、他職種からの鍼灸学校入学であるので、全ての身体に触れる技が雑で手荒である。
特にアルコールでの消毒操作と鍼術の「押し手」(鍼管を刺鍼する位置に固定する手)が手荒であるので、より具体的には手に力が入りすぎていて(力が入っていなくてしっかり拭けていない、鍼管が固定出来ていないよりは良いのだが、と考えると初心者にあってはまあ良いのではあるが……)痛いとまではいわないが違和感を感じる。
では、自身の「押し手」はどうなのか?それ以上に本来の「押し手」とは如何にあるべきなのか?と考えた。
端的には、自身の「押し手」も、単に鍼管しっかり固定するという目的意識でしか行なっておらず、五十歩百歩でしかないと思えた。
では、本来の「押し手」とは如何にあるべきか?と考えた時にイメージしたのが、指圧の押す過程である、「触れる→押す」である。また、指圧の押す技の一般性として「手押し」は、下の下であり初心者的ありかたであるから……と考えた。
そう考えていくと、結局は「押し手」といわず、鍼術の全ての技を、手技療法術の技として一般性を持たせるということが、言って見れば全てに同じ筋を通すということが大事なのである、と思える。
これは別言すれば、手技療法術の施術の全てにわたって一分の隙も出さないようにの施術でなければならないということ、と思える。
そのような施術を行う先生には、通常なかなかにお目にかかることは無いのであるが、それゆえに専門外の方にイメージしていただくことは難しいと思えるが、例えば、芸術の世界では幾らも存在するものである、思いつくものではオイストラフの演奏、プリセツカヤの舞……身近?なところでは美空ひばりの歌であろうか。
現在の鍼灸実技パートナーの同級生は手技療法術の経験のまったく無い、他職種からの鍼灸学校入学であるので、全ての身体に触れる技が雑で手荒である。
特にアルコールでの消毒操作と鍼術の「押し手」(鍼管を刺鍼する位置に固定する手)が手荒であるので、より具体的には手に力が入りすぎていて(力が入っていなくてしっかり拭けていない、鍼管が固定出来ていないよりは良いのだが、と考えると初心者にあってはまあ良いのではあるが……)痛いとまではいわないが違和感を感じる。
では、自身の「押し手」はどうなのか?それ以上に本来の「押し手」とは如何にあるべきなのか?と考えた。
端的には、自身の「押し手」も、単に鍼管しっかり固定するという目的意識でしか行なっておらず、五十歩百歩でしかないと思えた。
では、本来の「押し手」とは如何にあるべきか?と考えた時にイメージしたのが、指圧の押す過程である、「触れる→押す」である。また、指圧の押す技の一般性として「手押し」は、下の下であり初心者的ありかたであるから……と考えた。
そう考えていくと、結局は「押し手」といわず、鍼術の全ての技を、手技療法術の技として一般性を持たせるということが、言って見れば全てに同じ筋を通すということが大事なのである、と思える。
これは別言すれば、手技療法術の施術の全てにわたって一分の隙も出さないようにの施術でなければならないということ、と思える。
そのような施術を行う先生には、通常なかなかにお目にかかることは無いのであるが、それゆえに専門外の方にイメージしていただくことは難しいと思えるが、例えば、芸術の世界では幾らも存在するものである、思いつくものではオイストラフの演奏、プリセツカヤの舞……身近?なところでは美空ひばりの歌であろうか。
>そう考えていくと、結局は「押し手」といわず、鍼術の全ての技を、手技療法術の技として一般性を持たせるということが、言って見れば全てに同じ筋を通すということが大事なのである、と思える。
↑~
これって、「無用の用」的なモノですかね!?
一見して「無用」の様に思えても、実は確りと「用」立てられているモノ。
例えば、突きの引き手、抜き付けの鞘引き、包丁で切るときの食材を押さえる手……そう考えても、「押し手」の大事性ということになるとは思いますが……。
>現象としてはたいして役立っていないと思えるものも、それが部分としてある、全体の構造に立ち入ってみれば大事な役割を果たしている場合がある。
そうそう ♪♪♪ この言葉の感じです。
現象的には「無用」、構造的には「有用」、本質的には「一体」。