鍼灸実技。いかなる認識で学ぶべきなのか?
本日の鍼灸実技。鍼(環跳、承扶、殷門)、灸(裏内庭、失眠)行った。
指定された経穴を、指定された取穴法でとって、指定された刺鍼法で、指定された深さに打った。
教員からは、「上手く打てている。」との評価をもらったが、なんとも達成感の無い授業であった。
これには、二重性があると思える。一つは、同級生から鍼を打たれることが、鍼アレルギーの再発に繋がるかもしれないという前回までの恐さがほとんどないということであり、もう一つは、出来ることを出来るレベルでしているからの、達成感の無さと思える。
前者は良いとしても、後者は、上達論的に大きな問題である。と考える。
詳細は改めてとしたいが、気楽に鍼を打つという事は、気楽という弛んだ認識で鍼を打つ=技を創るあるいは使うということであり、いかなる分野であっても、一流を目指すならば、あってはならないことと思える。
例えば、武道であれば、組手をやるときは、常に相手を殺すつもりで!とか生命がけで!ということがよく言われるが、鍼灸であっても、常に相手の病を治すつもりで、かつ、一歩誤れば相手の生命を奪うかもしれないというシビアな認識で、技を創りかつ使わねばならないと思える。一言でいえば「常に組手のつもりで!」となろうか。
また、最低限、前回よりも1ミリであってもレベルアップを!との認識で実技を行うので無ければ、一流レベルなどは、夢のまた夢と思うべきである。
本日の鍼灸実技。鍼(環跳、承扶、殷門)、灸(裏内庭、失眠)行った。
指定された経穴を、指定された取穴法でとって、指定された刺鍼法で、指定された深さに打った。
教員からは、「上手く打てている。」との評価をもらったが、なんとも達成感の無い授業であった。
これには、二重性があると思える。一つは、同級生から鍼を打たれることが、鍼アレルギーの再発に繋がるかもしれないという前回までの恐さがほとんどないということであり、もう一つは、出来ることを出来るレベルでしているからの、達成感の無さと思える。
前者は良いとしても、後者は、上達論的に大きな問題である。と考える。
詳細は改めてとしたいが、気楽に鍼を打つという事は、気楽という弛んだ認識で鍼を打つ=技を創るあるいは使うということであり、いかなる分野であっても、一流を目指すならば、あってはならないことと思える。
例えば、武道であれば、組手をやるときは、常に相手を殺すつもりで!とか生命がけで!ということがよく言われるが、鍼灸であっても、常に相手の病を治すつもりで、かつ、一歩誤れば相手の生命を奪うかもしれないというシビアな認識で、技を創りかつ使わねばならないと思える。一言でいえば「常に組手のつもりで!」となろうか。
また、最低限、前回よりも1ミリであってもレベルアップを!との認識で実技を行うので無ければ、一流レベルなどは、夢のまた夢と思うべきである。