「思弁」ということの理解を深めるために『ニコマコス倫理学』(岩波文庫)を読んでいる。
端的には、アリストテレスがどのように考えていくのか ? ということを知るため、見ていくためである。
これは、「アリストテレスの記述(は)......プラトンからの認識の発展が確実になされている」「プラトンは「あの人はああいう意見だけれども、この人はこういう意見であって、どれが最も正しいのだろう ? 」といった、ある事物についての意見の正否を問うレベルであった。しかしながら、それがやがてアリストテレスに至ると、「この人はこういうふうに考えて、こういう結論を出したけれども、あの人はああいうふうに考えて、別のこういう結論を出した。それぞれその人なりの筋があるのだが、どういう究明の仕方が良いのだろうか ?」という問いかけが芽生えてくるようになる」「アリストテレスでは、事あるごとに究明の仕方そのものについての問いが随所で出てくるようになる。」(『哲学・論理学研究(第一巻)』(現代社白鳳選書107)と、悠季先生が説いてくださることの、実際を見て取ろうとすることでもある。
そのことに関連して想起されるのが、(国試)受験秀才的アタマの作られ方の不味さ(欠陥というべきか?)である。
どういうことかといえば、現在の鍼灸学校の教育では、特に国試受験レベルのでは、いくつかの選択肢の中から、どれが正しいのか ? ということを考える(選ぶというべきか?)ことが求められる。
そして、その深まりとは、まずはどれだけ多くの選択肢を想起できるのか ? ということだと教えられる。いっぱい選択肢を思い浮かべられれば、当たる確率も上がる!というわけである。(しかしながら、これではよく言ってプラトンレベルである。)
そしてもっと不味いことに、多くの国試受験のための学びをした人々のアタマの働きは、思い浮かんだいっぱいの選択肢のどれが正しいかを考えることにまで至らず、考える実力を培うことをせず(どの選択肢 = 結論が正しいのか ? と、問うていけば、当然にどのように考えて、その結論に至ったのか?を問うことにもなっていくはずだと思えるのだが......)選択肢を並べて見せるだけで、何か考察したかのような、何かを説いた(解いた)かのような錯覚に陥ってしまっているのである。(と自身には思える。)
これは、自身の周囲にも散見するアタマの働かせ方でもある。
しかし、である。人類はすでに二千数百年も前に、プラトン→アリストテレスという認識・精神の発展を持てているのだから......と残念に思う。