文章を書くときの漢字と仮名の使い分けの問題。(コイネー)ギリシャ語の語順の問題と同じこと、と思える。
文章を書く作法を当初にきちんと学んでこなかったので、今にいたるも文章を書くにあたって、漢字と仮名の使い分けの問題、句読点の問題、段落の問題に悩むことになってしまっており、このところようやくにして、それなりに自身で一貫した書きかたが出来るように、なってきつつあると思える。
その、漢字と仮名の使い分けの問題。油食林間さんが「(コイネー)ギリシャ語では文章の中で語順は決まっていない、だから逆に語順が大事なのだ」と述べられているのを読んで、論理的!アタマの良い人!と思った、その論理がそのままに、と思える。
どういう事かといえば、日本語では同じ言葉を漢字で、あるいは仮名で表現することが出来る。例えば、「像」とも「ぞう」書けるし、「恐い」とも「こわい」とも書ける。(実際には、「像」を「イメージ」ともできるし、「恐い」を「怖い」ともできるが、そこまでいうと問題が複雑になってしまうので……)
それゆえ、「漢字でも仮名でも書けるだけに、どちらを使うかは大事なのだ」と、また「それを決めてくるのは、認識の濃淡であるのだ」と思えるようになって来た。
まともな文章を書けるように取り組んでいきたい。
文章を書く作法を当初にきちんと学んでこなかったので、今にいたるも文章を書くにあたって、漢字と仮名の使い分けの問題、句読点の問題、段落の問題に悩むことになってしまっており、このところようやくにして、それなりに自身で一貫した書きかたが出来るように、なってきつつあると思える。
その、漢字と仮名の使い分けの問題。油食林間さんが「(コイネー)ギリシャ語では文章の中で語順は決まっていない、だから逆に語順が大事なのだ」と述べられているのを読んで、論理的!アタマの良い人!と思った、その論理がそのままに、と思える。
どういう事かといえば、日本語では同じ言葉を漢字で、あるいは仮名で表現することが出来る。例えば、「像」とも「ぞう」書けるし、「恐い」とも「こわい」とも書ける。(実際には、「像」を「イメージ」ともできるし、「恐い」を「怖い」ともできるが、そこまでいうと問題が複雑になってしまうので……)
それゆえ、「漢字でも仮名でも書けるだけに、どちらを使うかは大事なのだ」と、また「それを決めてくるのは、認識の濃淡であるのだ」と思えるようになって来た。
まともな文章を書けるように取り組んでいきたい。