「夢講義 第6巻」(南郷継正著 現代社)、読み返した。唯物論的な把握ということ初めてわかった。と思える。
「夢講義 第6巻」で、<時間>について、<時間>をあるものとして捉えるのは観念論的な捉え方で、<時間>を人類が創造したものとして捉えるのが唯物論的な<時間>の捉え方である。と説(解)いていただいている。
本来、<時間>というものは、人類が世界の変化、運動を、<時間>として捉え返すことで創造してきたものであり(それが唯物論的な<時間>の捉え方)、それを、もともと<あるもの>としてしまう、人類の精神が生み出したものを世界の始めから<あるもの>としてしまう(=精神的存在の度外れな拡大)のが観念論的ということである。ということだと理解した。
これを<陰陽>で言えば、世界に<陰陽>という性質がある。として<陰陽>を論じていく<陰陽論>は観念論的であり、本当は、世界の持つ性質を<陰と陽>として捉えて、人類が<陰陽なるもの>を創造したのであり、<陰陽論>とは、その人類が創造した<陰陽>によって、世界全体を、対象とするものを捉え返して、整理・分類して行って論じることである。と思う。
これは<気>についても、同じように唯物論的に捉え返してやらねばならないのでは、と思える。
以上の如くの作業を、鍼灸・東洋医学にかかわるあらゆる事柄に対して行っていくことが、唯物論的な学びであり、観念論的体系を唯物論的に学ぶということであり、自身で唯物論を創る、再措定するということ。なのでは無いだろうかと思う。
「夢講義 第6巻」で、<時間>について、<時間>をあるものとして捉えるのは観念論的な捉え方で、<時間>を人類が創造したものとして捉えるのが唯物論的な<時間>の捉え方である。と説(解)いていただいている。
本来、<時間>というものは、人類が世界の変化、運動を、<時間>として捉え返すことで創造してきたものであり(それが唯物論的な<時間>の捉え方)、それを、もともと<あるもの>としてしまう、人類の精神が生み出したものを世界の始めから<あるもの>としてしまう(=精神的存在の度外れな拡大)のが観念論的ということである。ということだと理解した。
これを<陰陽>で言えば、世界に<陰陽>という性質がある。として<陰陽>を論じていく<陰陽論>は観念論的であり、本当は、世界の持つ性質を<陰と陽>として捉えて、人類が<陰陽なるもの>を創造したのであり、<陰陽論>とは、その人類が創造した<陰陽>によって、世界全体を、対象とするものを捉え返して、整理・分類して行って論じることである。と思う。
これは<気>についても、同じように唯物論的に捉え返してやらねばならないのでは、と思える。
以上の如くの作業を、鍼灸・東洋医学にかかわるあらゆる事柄に対して行っていくことが、唯物論的な学びであり、観念論的体系を唯物論的に学ぶということであり、自身で唯物論を創る、再措定するということ。なのでは無いだろうかと思う。