枯雑草の写真日記2

あの懐かしき日々を想いながら・・つれずれの写真日記です。

ヒロシマ、原爆の日に思う

2011-08-07 | ヒロシマ



          8月6日、今年もまた広島はその日を迎えました。
          原爆死没者慰霊と平和祈念式の行われる平和公園には、日本国中、世界の国々
          から多くの人が集まりました。
          3月11日の東日本大震災、そして福島原発の事故に伴う放射線被害の経験は
          生々しく、このヒロシマでも、いつもの8月6日とは少し違った空気が漂っていた
          ように思います。
          松井広島市長は、被爆者と広島市民の意見を汲んで、「平和宣言」の中で、
          国のエネルギー政策の見直しへの要望に言及しました。
          日本全国から歩いてやって来た平和行進の人々の口からも
          「ノーモア・ヒロシマ」「ノーモア・ナガサキ」とともに「ノーモア・フクシマ」
          の声が高らかに発せられていました。
          戦後のある時期から一貫して核兵器反対の平和運動に身を投じてきた人からも、
          核の平和利用に対し、その安全性を疑わず、疑問や抗議を表明してこなかったことに
          切実な反省の声が聞かれます。

          原爆死没者慰霊碑に刻まれている碑文は、ご存知の方が多いでしょう。
          「安らかに眠ってください 過ちは繰返しませぬから」
          この「過ち」が誰の責任であるのか・・で、嘗て論争となったことがあったのです。
          当時の広島市長は「アメリカも日本も含む全ての人の責任であり、
          碑文は人類全体の誓いである」と言明したといいます。
          忘れてはならぬことです。日本人が犯してきた過ちにも敏感であるために・・

          この日は、平均年齢が77歳を超えたという被爆者と死没者の遺族にとっては、
          あの日を想う日であり、また慰霊の日でもあります。
          平和公園の原爆死没者慰霊碑を始めとして、市内に散置される多くの慰霊碑、
          モニュメントの前に、慰霊式の喧騒から離れて秘かに佇み、想い、合掌するのです。
          それらのいくつかを紹介しておきましょうか・・ 

          なお、今日はコメント欄は閉じさせていただきます。

原爆ドーム
          爆心地近くに残る、元産業奨励館の残骸。何度みても強烈な印象が蘇ります。
          残されてよかった・・今日も、またドームの上にはアオサギがいて、日本の世界の
          多くの人を見おろしているようでした。



















詩碑
          今は、原爆ドームのすぐ傍にある原民喜の詩碑。
          原民喜については、以前にこのブログでも紹介しました。爆心より1.5kの地で被爆した、
          作家、詩人。昭和26年東京の中央線で自らの46年の命を絶ちます。
          「遠き日の石に刻み  砂に影おち  崩れ墜つ天地のまなか  一輪の花の幻」
          その深紅の感性は痛々しいばかりです・・












嵐の中の母子像
          平和記念資料館前の「嵐の中の母子像」。昭和35年、広島市婦人会連合会により建立。
          原型の作者は、本郷新。作者は「広島の惨害がモチーフ、母子二代にわたる悲しみ、
          二つの世代に横たわる悲劇の記念像・・」と語ったと言われます。






広島市立高女原爆慰霊碑
          爆心地から600mのこの地で、家屋疎開作業中の広島市立高等女学校の職員、生徒
          679名の全員が亡くなった。慰霊碑の傍らに「あなたは、原子力(E=MC2)の世界最初の
          犠牲として、人類文化発展の尊い人柱となったのです。・・」と記されています。
          昭和23年、被爆後最も初期に建てられた碑。連合軍占領下とは言え、日本人の口から
          発せられたこの言葉の恐ろしさに震えます。











ある地区の原爆犠牲者慰霊之碑
          爆心地より2.4k。即死者こそ少なかったが、被爆後の惨状は他の地にも増して悲惨の極み
          であったと言われます。
          この碑について語られる言葉は少ないのです。それは、当時のこの地区に被差別が
          存在したことによっているのです。
          「天を抱くがごとく  両手をさしのべし  死体のなかにまだ生きるあり」





























何処か空しい夢の幻影、旧陸軍被服支廠倉庫

2009-10-30 | ヒロシマ
           広島市街の中心から東南へ3kほど。4棟の巨大な煉瓦造風の倉庫があります。
          ・・ただ放置されて。
          ここは昔、旧広島陸軍被服支廠があったところ。先の戦争の終わりには、17万㎡
          の敷地に100近い建物があったと言われます。
          被服支廠とは何か・・、陸軍の軍人が身につける軍服や軍靴などの被服を生産
          したところ。あのカーキ色一色の・・。
          原爆の爆風にも耐えて、今に残る4棟の倉庫は、大正2年の竣工。一見、煉瓦造
          に見えますが、躯体は鉄筋コンクリート造、その上に外装として煉瓦が貼られて
          いるのです。当時は鉄筋コンクリート造りの初期に当り、煉瓦造からコンクリート造
          への移行期の貴重な実例とも言われます。

          関係者以外入場禁止の看板の掛けられた鉄扉と塀に囲まれた、この空間は、
          アパートやコンビニが並ぶ街の中で、まさに止められた時間の場所と映ります。
          煉瓦の持つあの温かみも、立派な建造物を見たという感情も起こらない・・、
          何か恐ろしいものが巣くっていたところ・・、それは陸軍被服廠というその名を
          聞いたためでしょうか。
          でも、千と千尋の白い龍が空を舞っていたのは救いでした。
          赤い煉瓦の上を、窓を覆う鉄扉の上を蔦が覆いつつありました。
          春ごとのその緑の色が鮮やかでした。