枯雑草の写真日記2

あの懐かしき日々を想いながら・・つれずれの写真日記です。

ヒロシマの原爆被災説明板を訪ねる  その1

2014-08-06 | ヒロシマ
          ヒロシマでは69回目のその日が巡ってきました。
          街の表通りでは、様々な団体の平和行進が通り、「核兵器反対」「核反対」の声
          が響いているように思えます。
          今の広島の街並や建物や橋や・・それらの前にその被爆当時の姿を伝える写真板
          が設置されています。「原爆被災説明板」と呼ばれ、現在45基があるそうです。
          「見せたくない・・」「見られたくない・・」という気持ちも若干は働いたのでしょうか・・
          比較的目立たない場所に置かれたものも多く、近くの人に聞いても
          「そがいなもの あったかのー・・」という返事がよく返ってきます。
          でも、被爆の実態を示す証言の一つには違いないでしょう。
          この街をこのように破壊してしまったのか・・その元凶は何だろうか・・
          それらに至る根元は、現在もまた蠢いているかもしれないではないか・・
          それらを見極めるために、決して忘れてはならないものの一つだという気がします。

          私は爆心地近くから北へ南へ逃れていった被災者の道を辿って、その殆どを見て
          まわりました。そのうち半数くらいをここに紹介したいと思います。3回に分けて。
          (私の写真からは読み取ることが難しい説明板に付されたエピソードの一部は
          「青字」で示しています。)
          なお、コメント欄は閉じさせていただきます。




        1.爆心地



        2.猿樂町通り周辺



          被爆2ヶ月後に撮られた衝撃を受ける写真です。
          原爆ドーム周辺の植込みのなかに隠れるように立つ説明板。気付く人も少ない
          ようです。板に付けられたエピソードには次のようにあります。
          「この地域一帯は、藩政時代からの城下町として、能楽(猿楽)師、細工師、医師を
          はじめ大小の商家が軒を並べてにぎわっていました。 1945( 昭和20) 年8 月6 日
          午前8 時15分、人類史上初めての原子爆弾が細工町の島病院の上空約580メートル
          でさく裂し、爆心直下のこの一帯は、人も街並みも全滅しました。焼け跡には、
          広島県産業奨励館(現在の原爆ドーム)だけが象徴的な姿をさらしていました。
 



        3.原爆ドーム(元広島県産業奨励館)
          この建物はチェコの建築家ヤン・レツルにより設計、大正4年に完工したもの。
          近づいて見れば、この建物が生きていた頃の「念」のようなものが残っているということを
          感じます。


























          原爆ドーム前で、来訪者にヒロシマの思いを語る女子高生




        4.中島地区(爆心地から100~700m)
           「中島地区(現在の平和記念公園一帯)は、幕末から明治・大正・昭和にかけて
          市内有数の繁華街としてにぎわっていました。1945(昭和20)年8月6日、爆心地
          から至近距離にあったこの地区は、全滅状態となりました。この日は、多数の
          学徒と地域や職場から動員された人々が現在の平和大通り周辺で、建物の疎開
          作業のため動員されていました。顔の判別もつかぬほど焼けただれ、水を求めて
          川岸に集まった生徒たちは、全員が死亡しました。」













       5.本通り商店街(爆心地より250m)




        6.帝国銀行広島支店(爆心地より360m)
          「この建物は,1925(大正14)年に三井銀行広島支店として建てられました。
          猛烈な爆風のため,屋根は抜け落ち,爆心地に近い北西側の壁も崩れ落ちました。
          戦後修復され,現在はベーカリーとして利用されています。」





        7.福屋百貨店(爆心地より710m)
          「鉄骨鉄筋コンクリート造地上8階、地下2階建の建物は、原爆の炸裂による強烈な
          爆風と震動を受け、すべての施設、器具類が吹き飛ばされました。また、全館が
          炎の海と化し、建物の中にいた多くの人が亡くなり、建物は骨組みと外郭だけを
          残すだけになりました。」












鶴羽根神社のお祭りの日

2013-11-10 | ヒロシマ
          私の処から、おそらく一番近い神社、
          鶴羽根神社の秋のお祭りの日。
          出掛けてみました。 さて、さて・・
          こどもたちは、飾りたてた白馬に乗って、うれしそう。
          巫女さんが本殿前を掃いて清めて、
          神官のお嬢さんも揃って、神輿を迎えます。
          薄暗くなると、神楽奉納。
          人もけっこう集まってきましたね。
           演目は「塩祓い」に続いて「天神」。
           メインは「八幡」
          宇佐八幡の神が異国から飛来した悪魔王
          を退治する話。
          鬼、いや悪魔王の顔、所作、なかなかよく
          出来ていて、これは楽しめましたね。

          辺りはもう暗くなって、それより寒くなって・・
          以後の演目はご失礼して家に帰りましたよ。













































































川の畔の散歩

2013-11-04 | ヒロシマ
          私の家(いや、室かな・・)のほんの近くの
          川の畔の散歩です。
          川は京橋川。
          意外な存在感は、栄橋の水道橋の橋脚。
          いつかも紹介しましたね。
          川の流が、波紋を造っていました。
          川の畔で何想う・・女学生さん。
          回りはもう雪虫が舞っているのかな・・
          川辺の立派なマンションの駐車場。
          何釣れますか・・
          楽しそうな釣り仲間。


























































68年目の「ヒロシマ」で

2013-08-06 | ヒロシマ
          68回目のヒロシマの日が巡ってきました。
          「原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式」と呼ばれるように、その悲劇の源たる
          核兵器の廃絶と世界平和の実現を祈念する場なのです。
          一方・・
          エネルギー利用サイクルとして完成されていない「原子力」は現在、未来の人間
          に対し極めて大きな災厄をもたらす・・
          このことは一昨年の東日本大震災下の福島の原発事故によって明示され、
          「核」に起源を共通することから、昨年のこの場においては、「ヒロシマ」の新たな
          訴えとして歩み始めたように思えました。
          今年のヒロシマでは、そのことは薄らいでいたように感じられました。
          私には、断腸の思いにも似た悲しさです。

          会場の片隅で必死に祈る人の姿を見、多くの人と言葉を交わしました。
          特に外国生まれの人のたどたどしい日本語の中に「核利用反対」の声を多く
          聞いたように思いました。

























































ヒロシマ、67回目の原爆の日に

2012-08-06 | ヒロシマ
          67回目の原爆の日。今年も平和祈念式の会場に行きました。
          写真ブログのテーマとしてそぐわない内容なのでしょうけれど、年一度、この日
          だけはお赦し願っています。
          ヒロシマの多くの心は、・・願いは、今や核兵器廃絶ということを越えて、
          考えようによってはより現実的な、エネルギー問題としての原発に至っていると
          感じます。
          しかし、これは高度な政治的課題にもかかわらず、経済問題への置き換えが
          行われたり、さらには低レベルの政争の具と化しているのが現実のようです。
          祈念式での為政者の発言に対し、物足りなさ、不満の声が多く聞かれたように
          思います。式での発言の中では、福島から広島の学校に転校してきた仲間の
          「わかってくれてありがとう、広島に来てよかった」の言葉を紹介したヒロシマの
          こども代表の発言に(その裏に言いたかったことを感じて・・)心打たれました。
          我々は、これらのヒロシマの心を政治に反映させていかなくてはならないでしょう・・
          そう思いました。

          天も配慮いただいたのでしょうか・・前日までの酷暑は少し退いて、空には
          秋を思わせる雲もありました。冷たいオシボリを配るボランティアの少女にお礼
          を言いながら、多くの人の声を聞きました。