旧五輪天主堂は、明治14年、この久賀島(ひさかじま)の玄関港、田ノ浦に近い浜脇の天主堂として建設されたもので、昭和6年、浜脇天主堂改築の際、五輪の天主堂として移築。昭和60年、新しい五輪教会の建設により再度取り壊しの危機に瀕しますが、住民の要望で残置。平成11年、国の重要文化財指定により、長く保存されることになったもの。
長崎・五島地区の明治初期の木造天主堂として、この御堂と比肩しうるのは、明治12年建設の旧大明寺天主堂(長崎、伊王島)、明治15年頃の立谷天主堂(福江島)、明治15年の江袋天主堂(中通島)がありますが、旧大明寺は、昭和50年、愛知県、明治村に復元移築、立谷は平成3年倒壊、江袋は平成19年火災炎上。旧五輪は、同地区で唯一残る、古木造天主堂建築となったのです。
久賀島は、下五島の中で福江島の北側に位置し、福江から久賀島の東海岸の孤村、五輪へ行くには、ほぼ三つの方法があります。
第一は、海上タクシーで直接五輪の浜へ。第二は、福江から久賀島、田ノ浦まで定期船、そこから山越えを含む7、8kの歩行。第三は、田ノ浦まで定期船、そこから島の北側を回り込み五輪の近くまで(約14k)タクシー利用。団体であれば、文句なく第一の方法。ただし個人では高価。私は、第三の方法によりました。
タクシーの運転手はとても親切。「もう一人の運転手はクリスチャン、私は仏教徒で・・」と頻りに恐縮しながら、素朴な口調で案内をしてくれます。
現在の島民は500人足らず。(昭和30年頃は4000人近い人口だった。)その内150人位がクリスチャンだとか・・。島の中央、久賀町の中学校の生徒数は今10人位だとか・・。
島の北側、蕨の集落からは、1車線ぎりぎりの細い道。雉が車前を堂々と横切ります。五輪手前の集落、福見は4世帯、五輪は3世帯。ここも極端な過疎です。嘗ては、五輪教区の信徒は50余世帯であったといいますけれど・・。
小型車ぎりぎりの1車線ながらも、舗装された道は土道と変わり、道傍のアザミや草々を掻き分けて進むタクシーは、森の中の小さな空き地に止まります。ここから、南国の樹木が鬱蒼と囲む道を、2、300m行くと、ぽっかり開けた海の畔に。海岸に点在する数戸の家並の中に・・、
何度も写真で見て見馴れたというだけではない、何とも懐かしい気持ちを抱かせる旧五輪(ごりん)天主堂の建物が見えてくるのです。
その建物の前に立ちます。窓を見なければ、普通の民家にしか見えないでしょう。本体会堂部より一段低い切妻屋根の玄関部が出ています。この部分、移築時改変がされた可能性も指摘される所ですが、現状は巾は本体部のほぼ全面、アーチ型の垂れ壁の上に「天主堂」の文字が。玄関部奥、会堂部の扉上部の特徴ある美しい装飾。側面の上部尖頭アーチ窓のデザインとバランスを保っているように思えます。扉を開けて会堂の中に入れば・・、そこは別世界。
なお、この天主堂の設計・施工者は、久賀島田ノ浦の大工、平山亀吉と言われます。外国人神父が指導した形跡はない・・と。見よう見まねで造った天主堂、おそらくそうなのでしょうが、それにしても、なんといい腕と感性を持った大工でしょうか。ひょっとしたら、16世紀に最初に見た天主堂の印象が、遺伝子の中に組み込まれていたのではないか・・とまで思わせられます。
天主堂の中、そこは驚きの・・別世界でした。
平面は三廊式。各廊の正面に多角形平面の主祭壇、脇祭壇があります。主廊部の巾は脇廊部のそれの1.5倍、狭い部類に入ります。天井は主廊部、側廊部とも板張りの8分割リブ・ヴォールト天井。不思議なほどの板の輝きです。側窓とその上の天井の形態のバランスも見事です。
主祭壇には、イエスを抱くヨゼフ像、脇祭壇にはマリア像。ヨゼフの手の生々しさには、思わずドキリとさせられます。色の少ない堂内、懺悔室の赤いカーテンをそのまま残した・・心憎い演出とも。
堂の外に出れば、遠くの方、漁網でも繕っているのでしょうか、男の姿。ここは3世帯、10人ほどと聞きました。聞こえてくるのは波の音だけです。
この五輪という土地の名前、その文字から思い浮かぶことはないでしょうか。そう、嘗て、歌手五輪真弓の父は、ここに住んだことがあったそうです。「毎日、ヴァイオリンば弾いとった・・」そうな・・
五輪真弓は、昭和61年この集落を訪ね、裏山の墓地に行った時、強い霊感 を得て「時の流れに~、鳥になれ~」を作曲したといいます。
・・・鳥になれ おおらかな
つばさをひろげて
雲になれ、旅人のように
自由になれ ・・・
あの小さな空き地で待っていたタクシーの運転手さんに連れられて・・明治が始まる直前の慶応4年、6坪の小屋に8ケ月の間、200人が押し込められたという松ケ浦の牢跡(今は、牢屋の記念聖堂と、その時亡くなった39人の記念碑があります。)にも参りました。
あの五輪の浜にある天主堂が、いつまでも、いつまでも、そのままでありますように・・と願いながら、久賀島を後にしたのでした。(2010年5月)
長崎・五島地区の明治初期の木造天主堂として、この御堂と比肩しうるのは、明治12年建設の旧大明寺天主堂(長崎、伊王島)、明治15年頃の立谷天主堂(福江島)、明治15年の江袋天主堂(中通島)がありますが、旧大明寺は、昭和50年、愛知県、明治村に復元移築、立谷は平成3年倒壊、江袋は平成19年火災炎上。旧五輪は、同地区で唯一残る、古木造天主堂建築となったのです。
久賀島は、下五島の中で福江島の北側に位置し、福江から久賀島の東海岸の孤村、五輪へ行くには、ほぼ三つの方法があります。
第一は、海上タクシーで直接五輪の浜へ。第二は、福江から久賀島、田ノ浦まで定期船、そこから山越えを含む7、8kの歩行。第三は、田ノ浦まで定期船、そこから島の北側を回り込み五輪の近くまで(約14k)タクシー利用。団体であれば、文句なく第一の方法。ただし個人では高価。私は、第三の方法によりました。
タクシーの運転手はとても親切。「もう一人の運転手はクリスチャン、私は仏教徒で・・」と頻りに恐縮しながら、素朴な口調で案内をしてくれます。
現在の島民は500人足らず。(昭和30年頃は4000人近い人口だった。)その内150人位がクリスチャンだとか・・。島の中央、久賀町の中学校の生徒数は今10人位だとか・・。
島の北側、蕨の集落からは、1車線ぎりぎりの細い道。雉が車前を堂々と横切ります。五輪手前の集落、福見は4世帯、五輪は3世帯。ここも極端な過疎です。嘗ては、五輪教区の信徒は50余世帯であったといいますけれど・・。
小型車ぎりぎりの1車線ながらも、舗装された道は土道と変わり、道傍のアザミや草々を掻き分けて進むタクシーは、森の中の小さな空き地に止まります。ここから、南国の樹木が鬱蒼と囲む道を、2、300m行くと、ぽっかり開けた海の畔に。海岸に点在する数戸の家並の中に・・、
何度も写真で見て見馴れたというだけではない、何とも懐かしい気持ちを抱かせる旧五輪(ごりん)天主堂の建物が見えてくるのです。
その建物の前に立ちます。窓を見なければ、普通の民家にしか見えないでしょう。本体会堂部より一段低い切妻屋根の玄関部が出ています。この部分、移築時改変がされた可能性も指摘される所ですが、現状は巾は本体部のほぼ全面、アーチ型の垂れ壁の上に「天主堂」の文字が。玄関部奥、会堂部の扉上部の特徴ある美しい装飾。側面の上部尖頭アーチ窓のデザインとバランスを保っているように思えます。扉を開けて会堂の中に入れば・・、そこは別世界。
なお、この天主堂の設計・施工者は、久賀島田ノ浦の大工、平山亀吉と言われます。外国人神父が指導した形跡はない・・と。見よう見まねで造った天主堂、おそらくそうなのでしょうが、それにしても、なんといい腕と感性を持った大工でしょうか。ひょっとしたら、16世紀に最初に見た天主堂の印象が、遺伝子の中に組み込まれていたのではないか・・とまで思わせられます。
天主堂の中、そこは驚きの・・別世界でした。
平面は三廊式。各廊の正面に多角形平面の主祭壇、脇祭壇があります。主廊部の巾は脇廊部のそれの1.5倍、狭い部類に入ります。天井は主廊部、側廊部とも板張りの8分割リブ・ヴォールト天井。不思議なほどの板の輝きです。側窓とその上の天井の形態のバランスも見事です。
主祭壇には、イエスを抱くヨゼフ像、脇祭壇にはマリア像。ヨゼフの手の生々しさには、思わずドキリとさせられます。色の少ない堂内、懺悔室の赤いカーテンをそのまま残した・・心憎い演出とも。
堂の外に出れば、遠くの方、漁網でも繕っているのでしょうか、男の姿。ここは3世帯、10人ほどと聞きました。聞こえてくるのは波の音だけです。
この五輪という土地の名前、その文字から思い浮かぶことはないでしょうか。そう、嘗て、歌手五輪真弓の父は、ここに住んだことがあったそうです。「毎日、ヴァイオリンば弾いとった・・」そうな・・
五輪真弓は、昭和61年この集落を訪ね、裏山の墓地に行った時、強い霊感 を得て「時の流れに~、鳥になれ~」を作曲したといいます。
・・・鳥になれ おおらかな
つばさをひろげて
雲になれ、旅人のように
自由になれ ・・・
あの小さな空き地で待っていたタクシーの運転手さんに連れられて・・明治が始まる直前の慶応4年、6坪の小屋に8ケ月の間、200人が押し込められたという松ケ浦の牢跡(今は、牢屋の記念聖堂と、その時亡くなった39人の記念碑があります。)にも参りました。
あの五輪の浜にある天主堂が、いつまでも、いつまでも、そのままでありますように・・と願いながら、久賀島を後にしたのでした。(2010年5月)
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