弘松典夫さんの「終戦前後の吾が略歴」の続きです。昭和20年、弘松さん30歳。北朝鮮・新義州、敗戦直後。
○ 職を奪われ、生活の糧が得られず、当分は貴重品・衣料・家具等の売り食いにより生活をつなぐも帰国の見通しもなく、厳寒の冬を越年の場合も考えて、本川氏、佐藤視学等と共に水飴の行商、或いは鋸と斧をたよりに朝鮮人家庭の薪割り、又は、水道の下水工事人夫となって働く……馴れぬ仕事に ひと苦労……
○ 新義州・双葉校時代の上司(本川憲校長)が保安隊員によって拉致され、刑務所に連行されたと聞く。この頃、日本人の財閥・司法警察関係者等、続々逮捕され、警備課長ほか数名、非業の死を遂げたと聞く。この事実と関連して本川氏の身辺を気遣う。
在職中、日本人女教師(浜田三三子)にかかわる朝鮮人学童体罰傷害事件の教唆の疑いによることが判明。憎悪の目が邦人に注がれ、行動が監視される中を、危険をおかして助命のため東奔西走。その工作に尽力する。(詳細を略す)
○家宅接収はじまり、住み家を追い出される家族続出。倉庫等を仕切って、仮住居にし、多いところでは、20世帯ぐらいが雑居。嘗ての行政機関にあった高官達も同じ憂き目にあう。幸いにして、我が家は朝鮮人の教え子に譲ることとして、茶の間の一室と六畳一間の使用を認めて貰う……(あとでは茶の間のみに追い込まれる)……洋子たち(母共に)も家を追われ此処に引っ越し同居。
○ 在留邦人の若い男が次々と駆り出され、シベリヤ・北満方面に送られる。所謂、強制労働に服させる捕虜要員である。当年30歳であった自分も当然、該当者であったが幾度か、危機を脱する。◎前記の水道工事で働いていたときなどは当に間一髪というところで、今思えば身の毛がよだつ。妻や三人の幼子を抱えている身にしてあればことさらのこと。
1946(昭和21)・6・22 四男義生出生。不自由な抑留生活中に呱々の声をあげる。於 新義州府栄町六丁目
この夏から日本人ぼつぼつ陸路を南下して北鮮(原文のまま)を脱出しはじめるも、38度境界線通過はきわめて至難。中には引き返してくる者、途中銃殺される者、成功して南鮮(原文のまま)へ逃れる者、さまざま。穏忍自重してじーっと機を伺う。
8・22 或る程度の安全を確認して引き揚げ移動開始(引き揚げ第一陣に加わる。子連れと病人を抱えた家族)。終結した者約500名。
使用に耐えなくなった小型漁船五隻で編成。難破・沈没等は覚悟の上。食糧として、焼き米にカンメンポー(戦時中、軍隊が使用した携帯食料で、ビスケットに似たかたパン)、炒り豆、水など約5日分。
ポンポン蒸気の曳航船で10トンから15トン級の帆船4隻をロープで連結、新義州より出港。夕刻、ようやく大海に出る。5日がかりで南鮮(原文のまま)の仁川港へ。(詳述は後記へ)
隆紀(6歳)正典(4歳)章則(2歳)義生(生後2ヶ月)
8・27 仁川港上陸ー京城(日本の植民地時代のソウルの呼称)の収容所で7泊ー貨車に積み込まれて釜山へ(貨車の中は馬糞でプンプン、どうせ軍用列車の馬運搬用車両)ここでも収容所へ3泊
○ 職を奪われ、生活の糧が得られず、当分は貴重品・衣料・家具等の売り食いにより生活をつなぐも帰国の見通しもなく、厳寒の冬を越年の場合も考えて、本川氏、佐藤視学等と共に水飴の行商、或いは鋸と斧をたよりに朝鮮人家庭の薪割り、又は、水道の下水工事人夫となって働く……馴れぬ仕事に ひと苦労……
○ 新義州・双葉校時代の上司(本川憲校長)が保安隊員によって拉致され、刑務所に連行されたと聞く。この頃、日本人の財閥・司法警察関係者等、続々逮捕され、警備課長ほか数名、非業の死を遂げたと聞く。この事実と関連して本川氏の身辺を気遣う。
在職中、日本人女教師(浜田三三子)にかかわる朝鮮人学童体罰傷害事件の教唆の疑いによることが判明。憎悪の目が邦人に注がれ、行動が監視される中を、危険をおかして助命のため東奔西走。その工作に尽力する。(詳細を略す)
○家宅接収はじまり、住み家を追い出される家族続出。倉庫等を仕切って、仮住居にし、多いところでは、20世帯ぐらいが雑居。嘗ての行政機関にあった高官達も同じ憂き目にあう。幸いにして、我が家は朝鮮人の教え子に譲ることとして、茶の間の一室と六畳一間の使用を認めて貰う……(あとでは茶の間のみに追い込まれる)……洋子たち(母共に)も家を追われ此処に引っ越し同居。
○ 在留邦人の若い男が次々と駆り出され、シベリヤ・北満方面に送られる。所謂、強制労働に服させる捕虜要員である。当年30歳であった自分も当然、該当者であったが幾度か、危機を脱する。◎前記の水道工事で働いていたときなどは当に間一髪というところで、今思えば身の毛がよだつ。妻や三人の幼子を抱えている身にしてあればことさらのこと。
1946(昭和21)・6・22 四男義生出生。不自由な抑留生活中に呱々の声をあげる。於 新義州府栄町六丁目
この夏から日本人ぼつぼつ陸路を南下して北鮮(原文のまま)を脱出しはじめるも、38度境界線通過はきわめて至難。中には引き返してくる者、途中銃殺される者、成功して南鮮(原文のまま)へ逃れる者、さまざま。穏忍自重してじーっと機を伺う。
8・22 或る程度の安全を確認して引き揚げ移動開始(引き揚げ第一陣に加わる。子連れと病人を抱えた家族)。終結した者約500名。
使用に耐えなくなった小型漁船五隻で編成。難破・沈没等は覚悟の上。食糧として、焼き米にカンメンポー(戦時中、軍隊が使用した携帯食料で、ビスケットに似たかたパン)、炒り豆、水など約5日分。
ポンポン蒸気の曳航船で10トンから15トン級の帆船4隻をロープで連結、新義州より出港。夕刻、ようやく大海に出る。5日がかりで南鮮(原文のまま)の仁川港へ。(詳述は後記へ)
隆紀(6歳)正典(4歳)章則(2歳)義生(生後2ヶ月)
8・27 仁川港上陸ー京城(日本の植民地時代のソウルの呼称)の収容所で7泊ー貨車に積み込まれて釜山へ(貨車の中は馬糞でプンプン、どうせ軍用列車の馬運搬用車両)ここでも収容所へ3泊