小池さんのコメントをいただいて、六十路の会を思い出しました。在日韓国・朝鮮人生徒の教育を考える会の世話人にはどういうわけか1941(昭和16)年生まれが多く、50になった祝いを自分たちでやったのが始まりです。還暦を祝って六十路の会をやって6年がたちました。
今回は70年代に世話になった佐藤勝巳さんが昨年限りで『現代コリア』(月刊誌)を終結させたと聞き、慰労をかねてお互いに交流しようということにしました。2月2日、川越の奥座敷「小沢屋」に集う者、佐藤さんを含めて9名。50代の方も二人。11時から夜の9時まで(2時過ぎに閉会、後は我が家に来ていただく)飽きることなく交流が続きました。こうして佐藤さんと心おきなく議論するのは四半世紀ぶりです。
私たちが学校の中の民族差別に気づき、近くの朝鮮高校に交流を求めて話し合ったり、都教委に問題提起をしたり、差別事件の糾弾に取り組んだりしたときに、佐藤さんは常に側にいて、一緒に歩いてくれたのです。佐藤さんは一回り上の「巳」で当時40歳代、僕らは30代。日本朝鮮研究所を主宰され、月刊誌『朝鮮研究』を発行していました。この頃の主要なテーマは「民族差別との闘い」です。
佐藤さんたちの研究は在日2世の生活現実や意識から深く学び、共に闘う道筋を明らかにしようとする、実践に基づくそれでした。在日朝鮮人に対するなんの知識も持ち合わせていなかった僕は、この十年の歩み中でいくらか想像力を働かせる力を身に附けられたのかも知れません。少しは自分の考えを持つようになったのです。
佐藤さんを抜きにして今の僕はありません。他の方々もそれぞれに濃淡はあっても影響を受けているはずです。
80年代のある時から佐藤さんのテーマは「北朝鮮」になり、誌名も『現代コリア』となりました。90年代になると拉致被害者救出運動の先頭に立たれます。病気もされましたが立ち居振る舞いも声の張りもとても80近い人には見えません。北朝鮮の独裁政権と対峙し、被害者を取り返す闘いのただ中にいる人です。青年期、船に乗っていたときには北九州のやくざと渡り合ったといいます。その人生は常在戦場といえるかと思うほどです。
佐藤さんが偉いのは、自分と対立する人ときちんと向かい合うことです。70年代には朝鮮高校生と対立する国士舘の学生と。さらしを巻いて出かけたと聞いたことがあります。僕であればきっとびくびくして回避したことでしょう。04年には私たちの求めに応じて、北朝鮮問題で和田春樹さんとの公開対論に出てくれました。
六十路の会でも議論になることに期待を寄せて居られたようですが、あるはずの意見や立場の相違をはっきりさせるような討論にはならなくて、残念そうでした。問題は後輩である私たちにあるようです。ふだんは公然と佐藤さんを批判している人が、本人を目の前にして議論が出来ないのです。坊城さんの手紙に「対決の上に創造が生まれる」という言葉がありました。討論という方法が最良とはいえないかも知れませんが、相手を前にして率直な言葉を交わすことをしないというのは、他者も自分も大切にしていないということです。残念至極です。
拉致問題、北朝鮮帰国者問題、どれをとっても衆知を結集して立ち向かわなければ解決の糸口をつかめません。佐藤さんの考えや取り組みをこれまで以上に学びながら、自分たちの考えや取り組みをささやかでも作り出していきたいと思います。
佐藤勝巳さんの考えを知るためのブログ。<現代コリア>
http://gendaikorea.com/20080212_2_satou.aspx
今回は70年代に世話になった佐藤勝巳さんが昨年限りで『現代コリア』(月刊誌)を終結させたと聞き、慰労をかねてお互いに交流しようということにしました。2月2日、川越の奥座敷「小沢屋」に集う者、佐藤さんを含めて9名。50代の方も二人。11時から夜の9時まで(2時過ぎに閉会、後は我が家に来ていただく)飽きることなく交流が続きました。こうして佐藤さんと心おきなく議論するのは四半世紀ぶりです。
私たちが学校の中の民族差別に気づき、近くの朝鮮高校に交流を求めて話し合ったり、都教委に問題提起をしたり、差別事件の糾弾に取り組んだりしたときに、佐藤さんは常に側にいて、一緒に歩いてくれたのです。佐藤さんは一回り上の「巳」で当時40歳代、僕らは30代。日本朝鮮研究所を主宰され、月刊誌『朝鮮研究』を発行していました。この頃の主要なテーマは「民族差別との闘い」です。
佐藤さんたちの研究は在日2世の生活現実や意識から深く学び、共に闘う道筋を明らかにしようとする、実践に基づくそれでした。在日朝鮮人に対するなんの知識も持ち合わせていなかった僕は、この十年の歩み中でいくらか想像力を働かせる力を身に附けられたのかも知れません。少しは自分の考えを持つようになったのです。
佐藤さんを抜きにして今の僕はありません。他の方々もそれぞれに濃淡はあっても影響を受けているはずです。
80年代のある時から佐藤さんのテーマは「北朝鮮」になり、誌名も『現代コリア』となりました。90年代になると拉致被害者救出運動の先頭に立たれます。病気もされましたが立ち居振る舞いも声の張りもとても80近い人には見えません。北朝鮮の独裁政権と対峙し、被害者を取り返す闘いのただ中にいる人です。青年期、船に乗っていたときには北九州のやくざと渡り合ったといいます。その人生は常在戦場といえるかと思うほどです。
佐藤さんが偉いのは、自分と対立する人ときちんと向かい合うことです。70年代には朝鮮高校生と対立する国士舘の学生と。さらしを巻いて出かけたと聞いたことがあります。僕であればきっとびくびくして回避したことでしょう。04年には私たちの求めに応じて、北朝鮮問題で和田春樹さんとの公開対論に出てくれました。
六十路の会でも議論になることに期待を寄せて居られたようですが、あるはずの意見や立場の相違をはっきりさせるような討論にはならなくて、残念そうでした。問題は後輩である私たちにあるようです。ふだんは公然と佐藤さんを批判している人が、本人を目の前にして議論が出来ないのです。坊城さんの手紙に「対決の上に創造が生まれる」という言葉がありました。討論という方法が最良とはいえないかも知れませんが、相手を前にして率直な言葉を交わすことをしないというのは、他者も自分も大切にしていないということです。残念至極です。
拉致問題、北朝鮮帰国者問題、どれをとっても衆知を結集して立ち向かわなければ解決の糸口をつかめません。佐藤さんの考えや取り組みをこれまで以上に学びながら、自分たちの考えや取り組みをささやかでも作り出していきたいと思います。
佐藤勝巳さんの考えを知るためのブログ。<現代コリア>
http://gendaikorea.com/20080212_2_satou.aspx