僕の手元にいまも保管されている坊城校長からの手紙の紹介は今日でおしまいです。順番からいうと今日のが一番早いものだと思われます。
1970年度も3学期になって「成績評定」のあり方等について、僕が職員会議に提案したことがあります。評価のありかたにも問題はありますが、僕が一貫して問題にしたのは「評定」のほうです。学年末に「1」から「5」までの数字で附けます。この数字が20年間、指導要録に記録され、内申書などに転記されます。就職や進学の際、選抜の資料として今も利用されています。また、当時の池袋商業高校では一科目でも「1」がつくと進級や卒業が不可能とされていました。
僕の提案内容は今はっきりとは記憶していませんが、自分の担当する「政治経済」は全員「5」とする、卒業に必要な単位数を99単位(全科目)ではなく学習指導要領に定める85単位とするなどではなかったかと思われます。
鈴木啓介様
きのうの職員会議はあと味が悪かった。だから、僕の気持ちを、先生方に手紙で書こうと思う。そうして、本当のことをいえば、問題は会議以前にあると思う。日常、同じ職員室にいながら、「君の考えはまちがってはいないか」という率直な会話がおそらくないのではないだろうか。それをがまんして、日常はだまっていて、突如会議に出すから、提案理由の裏の裏が見えたりして、おもしろくない雰囲気になるのではなかろうか。
ところで啓介さんの提案だが、教師がたとえどのような意図で成績を出そうと、それが、生徒の「人間」の評価となって、その人の運命を決する結果になることもあるというのは、事実だと思う。僕にしたところが、もしも卒論にもう少しアカデミックな方法をとっていたら、などと考えたこともたびたびある。当時は卒論に対する教授の覚えで、就職の場所がきまったものだ、教職につく場合には。
しかし、だからといって無評価というのは、飛躍がある。なぜなら、人間というものは、自己の言動の一切を評価してほしいのだ。自立的な個性的な人間なら、一層のこと。そうして、たとえ誤った評価でもそれを欲するということが問題ではあるまいか。正しい評価というものを、人間はそもそもどの程度信頼しているのだろう。世界は誤解によって動いているとは、ボオドレエルのことばである。真理ではあるまいか。だから無評価なり、同一評価というものは、一時的な手段に過ぎないが、それは一体何の手段なのだろう。
アテネフランセに数ヶ月通ったことがあるが、ディクテを毎日やり、毎日前回のものを、出来る方から順にかえしてくれる。実に、厳しく、非情なものだった。どうもヨオロッパの教育は、日本などより評価の点でずっとずっと保守的で(保守という言葉はヨオロッパにあるが、日本にはないのではないか。日本でつかわれているのは、意味がちがう)しかも百年以上もつづけているという。これ以外にないという、ガンコきわまりないように思えた。(日本などはまあいい加減なものではないのか。それにくらべれば)そこで、ロンブロゾオが「天才論」で、学校教育は「人間」の敵でしかないと断ずるようなことになる。この「天才論」は僕の学生時代の愛読書のひとつだった。しかし、洋の東西を問わず、学校教育なるものは、一面では、「人間」性に発した、つまり「人間」とはきってもきれないものではないのだろうか。その点、これは矛盾するが、この矛盾を克服した次元には実は何もなく、この矛盾の上にのみ、僕ら、少なくとも僕の立脚地はあるような気がする。
これは貴君の御意見に対する僕の率直な意見である。それに学科によって、事情は大変ちがうので、一概にいうことはむずかしい問題でもある。
又そのうちかくかも知れない。
1970年度も3学期になって「成績評定」のあり方等について、僕が職員会議に提案したことがあります。評価のありかたにも問題はありますが、僕が一貫して問題にしたのは「評定」のほうです。学年末に「1」から「5」までの数字で附けます。この数字が20年間、指導要録に記録され、内申書などに転記されます。就職や進学の際、選抜の資料として今も利用されています。また、当時の池袋商業高校では一科目でも「1」がつくと進級や卒業が不可能とされていました。
僕の提案内容は今はっきりとは記憶していませんが、自分の担当する「政治経済」は全員「5」とする、卒業に必要な単位数を99単位(全科目)ではなく学習指導要領に定める85単位とするなどではなかったかと思われます。
鈴木啓介様
きのうの職員会議はあと味が悪かった。だから、僕の気持ちを、先生方に手紙で書こうと思う。そうして、本当のことをいえば、問題は会議以前にあると思う。日常、同じ職員室にいながら、「君の考えはまちがってはいないか」という率直な会話がおそらくないのではないだろうか。それをがまんして、日常はだまっていて、突如会議に出すから、提案理由の裏の裏が見えたりして、おもしろくない雰囲気になるのではなかろうか。
ところで啓介さんの提案だが、教師がたとえどのような意図で成績を出そうと、それが、生徒の「人間」の評価となって、その人の運命を決する結果になることもあるというのは、事実だと思う。僕にしたところが、もしも卒論にもう少しアカデミックな方法をとっていたら、などと考えたこともたびたびある。当時は卒論に対する教授の覚えで、就職の場所がきまったものだ、教職につく場合には。
しかし、だからといって無評価というのは、飛躍がある。なぜなら、人間というものは、自己の言動の一切を評価してほしいのだ。自立的な個性的な人間なら、一層のこと。そうして、たとえ誤った評価でもそれを欲するということが問題ではあるまいか。正しい評価というものを、人間はそもそもどの程度信頼しているのだろう。世界は誤解によって動いているとは、ボオドレエルのことばである。真理ではあるまいか。だから無評価なり、同一評価というものは、一時的な手段に過ぎないが、それは一体何の手段なのだろう。
アテネフランセに数ヶ月通ったことがあるが、ディクテを毎日やり、毎日前回のものを、出来る方から順にかえしてくれる。実に、厳しく、非情なものだった。どうもヨオロッパの教育は、日本などより評価の点でずっとずっと保守的で(保守という言葉はヨオロッパにあるが、日本にはないのではないか。日本でつかわれているのは、意味がちがう)しかも百年以上もつづけているという。これ以外にないという、ガンコきわまりないように思えた。(日本などはまあいい加減なものではないのか。それにくらべれば)そこで、ロンブロゾオが「天才論」で、学校教育は「人間」の敵でしかないと断ずるようなことになる。この「天才論」は僕の学生時代の愛読書のひとつだった。しかし、洋の東西を問わず、学校教育なるものは、一面では、「人間」性に発した、つまり「人間」とはきってもきれないものではないのだろうか。その点、これは矛盾するが、この矛盾を克服した次元には実は何もなく、この矛盾の上にのみ、僕ら、少なくとも僕の立脚地はあるような気がする。
これは貴君の御意見に対する僕の率直な意見である。それに学科によって、事情は大変ちがうので、一概にいうことはむずかしい問題でもある。
又そのうちかくかも知れない。