川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

坊城俊民校長の手紙(5)「対決」

2008-02-11 10:00:37 | こどもたち 学校 教育
 中国河南省の学校で日本語を教えるHさんが泊まっています。将史兄さんの従妹にあたります。飛行機の都合で、急遽上海に逗留することになり、もとの生徒さんの案内で、羅店鎮を訪ねたと写真をみせてくれました。此処は将史さんの父上・融さんが1937年に戦死したところです。羅店鎮のことはこのブログで知ったそうです。戦死から70年、将史兄さんもまもなく70歳になります。大寒波のもたらした天の贈り物です。
 明け方まで、妻や娘と話していたようです。僕は10時頃には休みました。中原と言われた河南省地方も50年ぶりの大雪とか。教室にも宿舎にも暖房というもののない学生達の生活は想像することも出来ません。親や一族の期待をしょって全国から集まる学生達の喜びも悩みも、違う世界のそれのようです。阿波踊りの発表会の様子をカメラでみせてもらいました。学生達のひとりひとりに注ぐHさんの優しいまなざしに感心します。健康を損なわないように祈るばかりです。


 坊城さんの手紙の続きです。


 けさ、ラジヲで、天文学者の人生観をきいていた。そしたら、本人の考えは、天動説のガンコ者であるけれども、そのために、本人が観察した、精密な記録は、地動説の役に立ったというような例をいくつかあげていた。……ここに問題があると私は思う。
 近代文学をかたちずくった人々は、近代と対決した人だった。君がこの間の職員会議で言った言葉をおぼえている。「山崎さんの講演をすなおにいいと思った生徒よりも、反発したり反抗したりする生徒に注目すべきである」と。こういうとらえ方は私をよろこばせた。
 
 奥様が僕の出自のことを書いた。でもそれは君のうしろに、室戸岬の太平洋の荒海があるのとおなじことではあるまいか。僕の背後には、京の風物があった。
 そうして、その出自で、得をしているかもしれないが、損もしているし、差別もかんじた。でも、それを喜んでみたところで、悲しんでみたところではじまらない。日本人として生まれたからには、日本人であるより仕方がないと同様に。
 今日はこのくらいにしておこう。又かくかも知れないぜ。返事のことは、気にしないでくれ。僕は書きたくなると書くのだ。
 僕は君の理論よりは、きみの中の、多分きみ自身が余り意識していない魂に、魂のある部分に魅力を感じるんだな。倫子さんはどうなんだろう?


 山崎さんの講演   70年度、僕は生徒部に講演係というものをつくってみずから立候補し、職場の協力を得て、2学期に山崎朋子さんの全校講演会を実施した。「日本人と朝鮮人」。東京朝鮮中高級学校の生徒と日本の高校生の日常的な暴力事件の中で「朝鮮憎し」の感情が学校中にうずくまっていた。社会科の同僚の協力を得て、この問題に体当たりすることにした。
 講師の山崎朋子さんは『サンダカン八番娼館』などで後に著名となる底辺女性史研究家。お連れ合いの上笙一郎(かみしょういちろう)さんが坊城校長の生徒だったことがわかり、おふたりとも奇遇を喜んでくれました。