川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

坊城俊民校長からの手紙(4)「対決」

2008-02-10 05:53:20 | こどもたち 学校 教育
忠幸さんからメールをいただきました。

 かねてから鈴木さんに聞かれていた<大躍進>、<廬山会議>の本も見つけたので書きます。
○書名:『餓鬼 ハングリー・ゴースト…秘密にされた毛沢東中国の飢饉』/出版:中央公論新社 2400円 1999年7月10日初版発行/著者:ジャスパー・ベッカー、および、○『廬山会議…中国の運命を定めた日』/出版:毎日新聞社 2500円 1992年12月30日発行 著者:蘇暁康、羅時叙、陳政。
後者の訳者・辻康吾さんは岩波・現代中国事典・『大躍進』の項の執筆者です。

 早速、川越市立図書館にいって借りてきました。「三年自然災害」という名の毛沢東ー中国共産党が引き起こした人災(4000萬人以上の餓死)について1月22日に紹介しましたが、この2冊は「共産主義は天国」と歌わされた中国の農民の悲劇の根源に迫る力作のようです。カンボジアでのポルポトたちによる集団虐殺にたいする裁判に日本政府も金を出していますが、その手本とも言うべき毛沢東による「大虐殺」には政府も学者も政党も知らん顔。中国共産党と絶交していたはずの日本共産党もヨリを戻したとか。オリンピックに浮かれているばかりではなく、今もつづく隣国の農民の苦難の根源に迫る学びを遅まきながらしていきたいと思います。
 今日はこの惨劇の舞台であった河南省の学校で日本語を教えている親戚のひとりが遊びに来てくれます。

 坊城校長からの手紙。今日のは原稿用紙に鉛筆で書かれています。日付はありません。71年春先だと思われます。


 きのうはもっとゆっくり話したかった。放課後を選んだのもその為であったけれど、お客様ではしかたがない。オール5という現象面の話ではなく、その底辺の問題について話したかった。
 きのうこういう意味のことをきみは言った。「生徒は何ものとも対決していない」と。僕が言った。「そうだ。対決の上に、創造が生まれる」と。
 ただその対決ということだが、多分、きみが心に描いているものと、僕のそれでは、種類や質が違うだろう。でも同じ者もあるはずである。
 たとえば、人間対人間の対決を、きみは心に描いているだろう。たとえば真剣な討論といったものを。そのかぎりにおいては同じなのだが、人間の内容に、ぼくはかならずしも生身の人間を描いてはいない。たとえば本は、人間が生み出したものだが、ある場合は生身以上に生身である。本とのぶつかり合い、技術とのぶつかり合い、そういうぶつかり合いがない。
 例をあげてさしさわりがあるが、若人という本の三島論は大変もの足りなかった。出場者が、そのひとりひとりが、もっと、一対一で三島と対決しているなら、あの討論は面白かろう。ところがその「もと」のものがない。そういうことが、あり過ぎはしまいか。
 そうして、ひとつの人物、と対決しているとき、人はそれにとらわれて、夢中になる。とらわれること自体はいいことではないが、そういう夢中さが、ないということは淋しい。
 でもねそういう対決は、必ずしも目に見えるものではない。短時間に成るものでもない。その辺のところに、あせりがあってはなるまい。
 僕は討論というものを、それほど有意義とは思わない。なぜなら、そのもとになる、個々人との対決がない時は。三島とのことで対談会をもつことになった時、ぼくは、心の中で三島と対決したことのある人でなければ喋りたくないと言った。しかし、あの時期、あまり面白いことはなかったけれども。(つづく)