川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

北朝鮮・敗戦前後の記録(下)

2008-02-04 22:32:15 | 父・家族・自分
 2日(土)は「六十路の会」で小沢屋と我が家で夜遅くまで交流しました。勝義さんは泊まってゆっくりして昨日午後雪がやんでから帰られました。「六十路の会」のことは他日。

弘松典夫さんの「終戦前後の吾が略歴」の最終回です。朝鮮・釜山から日本へ。
  
 1946(昭和21)9・15~23
 レパシティー(米軍上陸用舟艇)に乗船ー佐世保入港・検疫のため一週間碇泊ー 佐世保収容所へ泊ー高知へ引き揚げる
  電車の終点・安芸駅に帰国第一歩を印す。引き揚げ者収容所にて当座をしの  ぐ。
  
 9・   本籍地・田野の役場に出頭、帰還を届け出る。(略)
 
 ?・   高知県野根国民学校助教諭として再採用。直ちに赴任 月俸85円給 与 校長・竹内熊重氏。髭を伸ばしていたのが印象的。人格に敬服、日を経るに 随い意気投合。嘗てご真影奉安殿としていた部屋を当座の仮住まいとする。

 12・21 南海大地震に遭遇。午前四時過ぎ、天地鳴動する。屋根瓦がすべり 落ちる音、壁が崩れて今にも天井が落ちかかってくる気配。上下左右の動揺に身 をまかす。家族一同机の下に頭をつっこむ。少しも慌てず。夜が明けて外に出て みる。被害が並々でなかったことを知る。家屋倒壊多数、死者若干。

 47・5・1  奈比賀小学校長に任命される
 49・?・1  馬ノ上小学校に転勤
    9    教職員免許法改正施行により現職教員に対する夏期認定講習は         じまる。初年度受講。
 51・3・31 室戸小学校に転勤(専任教頭)校長 坂井為利氏
 53・3・31 高知県教育委員会事務局主事に補せられ安芸教育事務所主事と         して勤務(人事担当) 所長・池沢久我男氏と同時赴任。
 

 三十歳の弘松さんが北朝鮮・新義州で迎えた敗戦の前後の様子がよくわかる記録です.
 岩波・近代日本総合年表によれば1927年4月から「師範学校卒業者の現役服務、1年間から5ヶ月になる」とあります。ちょうど父が師範学校を卒業した年から5ヶ月軍役を勤めるといざという場合、下士官として任用された訳です。弘松さんは敗戦間際召集され、教員としてではなく、陸軍伍長として敗戦を迎えたのです。
 植民地・朝鮮で生まれ育った弘松さんがどんな考えを身につけて教育に当たっていたのか、敗戦後の体験をどう受け止めたのか。それと「勤評は戦争への一里塚」といって、勤評に職を賭して反対した運動はどうつながっているのか。などなど、佐倉にお尋ねしたとき、伺ってみたいと思います。
 引き揚げ体験記では船で38度線を越えたというのが僕には意外でした。38度線を歩いて越える苦難の記録や話ばかりを聞いてきたからです。「後記」に「詳述」されているそうですから、読ませてもらいたいと思います。
 竹内熊重という名前は高校生の時、新聞で知ったように思います。勤務評定を阻止する闘いとかかわって。池沢久我男先生は一時、室戸岬中学校の校長でそれこそ父とは肝胆相照らす仲のように見えました。家の表の間で夕方から朝まで二人で語り合っていたのです。池沢先生は父と同じく酒豪ですが、刺身一切れを表にしたり裏にしたりしながら何時間も過ごすということで我が家では有名でした。1950年過ぎの朝鮮戦争の時期ということになりますが、弘松先生もこの頃仲間に加わったことになります。どんな話をしていたのかタイムスリップして聞いてみたいものです。