今日から11月です。暖かさと好天は今日までだというので昼前に川越公園にいって散歩してきました。昨日一日休んでサイクリングの疲れはだいぶとれたようです。公園の萩は黄色くなっています。我が家の白萩は今が盛りで花びらが散り始めました。
もう旧聞に属しますが犬童球渓のことを書いたときに田端さんからメールを貰いました。遅まきながら紹介します。
「犬童球渓」のこと、大変懐かしく興味深く読みました。(略)
それにしても鈴木さんが人吉・球磨地方の文物や自然にこれほど深い
哀情と洞察力を注がれるなんて、あらためて敬意を表します。
犬童球渓には私の母も人吉高女時代に教えてもらっています。亡くな
るまでそれが語り草でした。
私も、中・高校で音楽部にも属していましたので、毎年の球渓音楽祭
には出演して歌いました。
大島高校時代に、音楽のNさんと飲みながらの話に「犬童球渓」が
出て、「結局、日本の音楽家なんてそんなレベルよ。外国の曲に作詞
しただけだろ。」と彼は切って捨てました。
私はその時も今もそうは思いません。
彼の詞、「旅愁」や「故郷の廃家」など、彼の心中の吐露そのものですし
それがあの曲と相俟って人の心を揺さぶる彼の歌になっています。
「旅愁」は、今時の中国の学生たちもよく知っていて中国語で歌います。
中国では「送別」という題になっていて、別れを惜しむ歌なのです。
作詞は「李叔同」という人で、1900年初めごろ日本へ留学したことがある
そうですから、多分日本で聞いて忘れがたかったのでしょう。
中国の学生たちは「これは中国の歌です」と言い張ります。原詩が日本
人、作曲がアメリカ人なんて全く知らないのです。もっとも「四季の歌」や
「北国の春」だって中国の歌だと思っていますから…
五木のダムも中止となりそうですが、五木村長を始め村民の中には政
治に翻弄された痛みや恨みつらみがあちこちで噴出しているようです。
民主党も改革をやろうとすると長年の自民党の負の巨大な遺産が壁と
なって一筋縄ではいかないようですね。
もともと圧倒的農民であった日本人の気質は保守的ですから、人々の意
識改革には相当の時間がかかるでしょうね。(略)
ぼくの返信です。
球渓は田端さん母子とも深くつながっているのですね。子ど
もから大人になっていく過程でどんな人や風物とつながるか、
運命というのか、それも人を育てる大切な要素ですね。田端さ
んや賀明さんと出会うことができたおかげで人吉や球磨川やが
僕にとっても懐かしさを感じさせる大切な土地になったのです
。ありがたいことです。
ぼくが1999年に人吉を訪ねたのは ダムで消えるかもしれない川辺川の清流を観ておきたい、ダム底になるかもしれない五木村を訪ねてみたい、などの動機によるものです。もちろん、その下敷きには大島で世話になった友人たちの故郷であることがあります。このころ賀明さんは東京におられましたが奥さんの実家のお寺を訪ねて歓待を受けました。
相良氏の長い統治の中で「隠れ念仏」の歴史があることを知ったり、球渓の娘さんにお会いする光栄に浴したりしました。また、この旅をきっかけにしてダム反対運動に取り組む人々の本を読んだりしてそれまでより関心を持つようになりました。旅をして川や森や村や人と出会うと「川辺川ダム」問題もぐうっと身近になるような気がするんですね。これが旅のおもしろさです。
田端さんの奥さんのルーツの地が五木だと聞きました。あの「五木の子守唄」の里です。こちらは「旅愁」や「故郷の廃家」より、もっと小さいときに身に付いた唄です。この里の人々が長い間、ダム問題に翻弄されて傷んでいると言います。
長く地道に反対運動を続けてきた人々のおかげで村と清流は残ることができそうです。しかし、村に精気を回復し、にぎわいを取り戻すことはできるでしょうか。
至難ではあってもやりきってほしいものです。
「五木の子守唄」は数ある中の一つの唄ではありません。私たちの先輩が長い年月の中で生み出した魂の唄です。こどもの時から、ひとりぼっちになったときなどに歌っては慰められ、励まされてきたのではなかったかと思います。
そんな唄を生んだ村が元気にならなければこの国に希望は生まれないのです。
「旅愁」「故郷の廃家」「五木の子守唄」。どの唄もこの地方の人が生み出した唄なんですね。これらの唄にはぐくまれた人々の力はダムを阻止し、自然生態系を守り抜く成果を収めようとしています。その力がやがてふるさと再生の原動力になっていくことを願わずにはおられません。
正調五木の子守唄http://www.fooooo.com/watch.php?id=Wnj-tz8i8n8
五木の子守唄http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/itsugino.html
もう旧聞に属しますが犬童球渓のことを書いたときに田端さんからメールを貰いました。遅まきながら紹介します。
「犬童球渓」のこと、大変懐かしく興味深く読みました。(略)
それにしても鈴木さんが人吉・球磨地方の文物や自然にこれほど深い
哀情と洞察力を注がれるなんて、あらためて敬意を表します。
犬童球渓には私の母も人吉高女時代に教えてもらっています。亡くな
るまでそれが語り草でした。
私も、中・高校で音楽部にも属していましたので、毎年の球渓音楽祭
には出演して歌いました。
大島高校時代に、音楽のNさんと飲みながらの話に「犬童球渓」が
出て、「結局、日本の音楽家なんてそんなレベルよ。外国の曲に作詞
しただけだろ。」と彼は切って捨てました。
私はその時も今もそうは思いません。
彼の詞、「旅愁」や「故郷の廃家」など、彼の心中の吐露そのものですし
それがあの曲と相俟って人の心を揺さぶる彼の歌になっています。
「旅愁」は、今時の中国の学生たちもよく知っていて中国語で歌います。
中国では「送別」という題になっていて、別れを惜しむ歌なのです。
作詞は「李叔同」という人で、1900年初めごろ日本へ留学したことがある
そうですから、多分日本で聞いて忘れがたかったのでしょう。
中国の学生たちは「これは中国の歌です」と言い張ります。原詩が日本
人、作曲がアメリカ人なんて全く知らないのです。もっとも「四季の歌」や
「北国の春」だって中国の歌だと思っていますから…
五木のダムも中止となりそうですが、五木村長を始め村民の中には政
治に翻弄された痛みや恨みつらみがあちこちで噴出しているようです。
民主党も改革をやろうとすると長年の自民党の負の巨大な遺産が壁と
なって一筋縄ではいかないようですね。
もともと圧倒的農民であった日本人の気質は保守的ですから、人々の意
識改革には相当の時間がかかるでしょうね。(略)
ぼくの返信です。
球渓は田端さん母子とも深くつながっているのですね。子ど
もから大人になっていく過程でどんな人や風物とつながるか、
運命というのか、それも人を育てる大切な要素ですね。田端さ
んや賀明さんと出会うことができたおかげで人吉や球磨川やが
僕にとっても懐かしさを感じさせる大切な土地になったのです
。ありがたいことです。
ぼくが1999年に人吉を訪ねたのは ダムで消えるかもしれない川辺川の清流を観ておきたい、ダム底になるかもしれない五木村を訪ねてみたい、などの動機によるものです。もちろん、その下敷きには大島で世話になった友人たちの故郷であることがあります。このころ賀明さんは東京におられましたが奥さんの実家のお寺を訪ねて歓待を受けました。
相良氏の長い統治の中で「隠れ念仏」の歴史があることを知ったり、球渓の娘さんにお会いする光栄に浴したりしました。また、この旅をきっかけにしてダム反対運動に取り組む人々の本を読んだりしてそれまでより関心を持つようになりました。旅をして川や森や村や人と出会うと「川辺川ダム」問題もぐうっと身近になるような気がするんですね。これが旅のおもしろさです。
田端さんの奥さんのルーツの地が五木だと聞きました。あの「五木の子守唄」の里です。こちらは「旅愁」や「故郷の廃家」より、もっと小さいときに身に付いた唄です。この里の人々が長い間、ダム問題に翻弄されて傷んでいると言います。
長く地道に反対運動を続けてきた人々のおかげで村と清流は残ることができそうです。しかし、村に精気を回復し、にぎわいを取り戻すことはできるでしょうか。
至難ではあってもやりきってほしいものです。
「五木の子守唄」は数ある中の一つの唄ではありません。私たちの先輩が長い年月の中で生み出した魂の唄です。こどもの時から、ひとりぼっちになったときなどに歌っては慰められ、励まされてきたのではなかったかと思います。
そんな唄を生んだ村が元気にならなければこの国に希望は生まれないのです。
「旅愁」「故郷の廃家」「五木の子守唄」。どの唄もこの地方の人が生み出した唄なんですね。これらの唄にはぐくまれた人々の力はダムを阻止し、自然生態系を守り抜く成果を収めようとしています。その力がやがてふるさと再生の原動力になっていくことを願わずにはおられません。
正調五木の子守唄http://www.fooooo.com/watch.php?id=Wnj-tz8i8n8
五木の子守唄http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/itsugino.html