17日(火)雨
昼ごろ丸木美術館に着くと豊洲北小学校の子供たちは館内見学と昼食を終えたところだった。朝から冷たい雨になってさすがに川遊びは出来なかった。岸辺を近隣の寺まで歩いたらしい。
大沼校長にせかされて八怪堂に集まった子供たちの前に立って話をする。
寒いから今日はこういう機会はないと思っていたので慌てた。とっさに「ピカは落とさにゃ落ちてこん」というという丸木スマさんの言葉を紹介し、なぜ?って考える力を身につけ、人のために働く人になってほしいとメッセージを送った。
この学校に通う子供たちは諸条件に恵まれ学力が高い子が多いという。いうなれば僕の少年時代と同じだ。自然の懐に抱かれて、友達と心ゆくまで睦みあって楽しい思い出をいっぱい作っておいてほしいと思う。人とともにあることがどんなに楽しく人生を豊にするかを自然に身に着けてほしいと思う。
そんな願いを持ちながら話をしているうちに言葉に詰まってしまった。僕は人生を通じていい生徒、友人に恵まれ、今またこのように未来を担う子供たちにメッセージを送るチャンスを与えられた。なんという喜びだろう。そういう思いがこみ上げてきたのではなかったか。
大沼くんはぼくとの出会いを語り、決意を述べて子供たちを励ました。16歳のときに出会ってから43年の月日が経っている。僕がかれ(かれら)にとってどういう教師であったか。精一杯に日々を過ごしたにしても正に未熟そのものであったに違いない。
それから後の時間をそれぞれに生きて、再び出会うことが出来た。僕は彼の人生を少しずつ知り、その歩みに学ぶ。今の学校世界でこれほどのやんちゃ校長はそうはおるまい。こどもたちと喜びと悲しみを心から分かち合うことが出来るのだ。
僕が何かを伝えたわけではないが、僕の生徒だった人が今最高の働きをしている。僕にとって本当に嬉しいことである。
今日の生徒たちが何時の日か、丸木美術館の思い出を大沼くんや担任の先生方と語り合う日が来るに違いない。そのうちの一人は学校の先生になっているのかなあ。
充実した思いに満たされて雨の道を有明埠頭に向かった。豊洲北小の近くのレストランで夕食にした後、徳島行きのフェリーに乗った。
18日(晴れ)
朝から快晴。一時過ぎ、徳島港着。通いなれた道を一路室戸へ。
東洋町の役場により沢山町長に面会を求めたが東京に行っているとのこと。残念。(今朝の新聞によると、最高裁判所に行っていたことがわかる。澤山さんたちの主張を最高裁が認める画期的な判決が出たという。)
生家に着くと同時に兄が「おきゃく」を開いてくれた。小学校の同級の池本さんや濱田くんが来てくれた。驚いたことは遠い昔世話になった山本ヒサさんの姿があったことだ。
僕が問題に関心を持つようになって初めて室戸の被差別を訪ねたとき、解放同盟の山本さんご夫妻が丁寧に応対してくれた。その後も帰郷のたびに小さかった子供たちをつれてお邪魔した。
ごぶさたばかりだが夫の茂光さんがなくなられて13年が過ぎたという。89になられたそうだが元気いっぱい矍鑠としておられる。
ヒサさんが千葉県から室戸に来られたのは1950年だという。「同和問題」については無知で、苦労の連続だったそうだ。今では室戸の町に欠かせない素敵なおばあちゃんリーダー。池本さんが近頃この方に出会って、昔の元気を取り戻しつつある喜びを語ってくれた。
大先輩がわざわざ出向いてくれて励ましてくれました。ご自分も「爆弾」を抱えているというのに本当にありがたいことです。遠い昔、世話になっただけで何の恩返しもしていません。正月などに訪ねて、僕が遠慮なく出されたご馳走をすっかり平らげるのが嬉しかったといわれます。
室戸も寒い一日でしたがこんな再会に恵まれてありがたい一夜でした。
昼ごろ丸木美術館に着くと豊洲北小学校の子供たちは館内見学と昼食を終えたところだった。朝から冷たい雨になってさすがに川遊びは出来なかった。岸辺を近隣の寺まで歩いたらしい。
大沼校長にせかされて八怪堂に集まった子供たちの前に立って話をする。
寒いから今日はこういう機会はないと思っていたので慌てた。とっさに「ピカは落とさにゃ落ちてこん」というという丸木スマさんの言葉を紹介し、なぜ?って考える力を身につけ、人のために働く人になってほしいとメッセージを送った。
この学校に通う子供たちは諸条件に恵まれ学力が高い子が多いという。いうなれば僕の少年時代と同じだ。自然の懐に抱かれて、友達と心ゆくまで睦みあって楽しい思い出をいっぱい作っておいてほしいと思う。人とともにあることがどんなに楽しく人生を豊にするかを自然に身に着けてほしいと思う。
そんな願いを持ちながら話をしているうちに言葉に詰まってしまった。僕は人生を通じていい生徒、友人に恵まれ、今またこのように未来を担う子供たちにメッセージを送るチャンスを与えられた。なんという喜びだろう。そういう思いがこみ上げてきたのではなかったか。
大沼くんはぼくとの出会いを語り、決意を述べて子供たちを励ました。16歳のときに出会ってから43年の月日が経っている。僕がかれ(かれら)にとってどういう教師であったか。精一杯に日々を過ごしたにしても正に未熟そのものであったに違いない。
それから後の時間をそれぞれに生きて、再び出会うことが出来た。僕は彼の人生を少しずつ知り、その歩みに学ぶ。今の学校世界でこれほどのやんちゃ校長はそうはおるまい。こどもたちと喜びと悲しみを心から分かち合うことが出来るのだ。
僕が何かを伝えたわけではないが、僕の生徒だった人が今最高の働きをしている。僕にとって本当に嬉しいことである。
今日の生徒たちが何時の日か、丸木美術館の思い出を大沼くんや担任の先生方と語り合う日が来るに違いない。そのうちの一人は学校の先生になっているのかなあ。
充実した思いに満たされて雨の道を有明埠頭に向かった。豊洲北小の近くのレストランで夕食にした後、徳島行きのフェリーに乗った。
18日(晴れ)
朝から快晴。一時過ぎ、徳島港着。通いなれた道を一路室戸へ。
東洋町の役場により沢山町長に面会を求めたが東京に行っているとのこと。残念。(今朝の新聞によると、最高裁判所に行っていたことがわかる。澤山さんたちの主張を最高裁が認める画期的な判決が出たという。)
生家に着くと同時に兄が「おきゃく」を開いてくれた。小学校の同級の池本さんや濱田くんが来てくれた。驚いたことは遠い昔世話になった山本ヒサさんの姿があったことだ。
僕が問題に関心を持つようになって初めて室戸の被差別を訪ねたとき、解放同盟の山本さんご夫妻が丁寧に応対してくれた。その後も帰郷のたびに小さかった子供たちをつれてお邪魔した。
ごぶさたばかりだが夫の茂光さんがなくなられて13年が過ぎたという。89になられたそうだが元気いっぱい矍鑠としておられる。
ヒサさんが千葉県から室戸に来られたのは1950年だという。「同和問題」については無知で、苦労の連続だったそうだ。今では室戸の町に欠かせない素敵なおばあちゃんリーダー。池本さんが近頃この方に出会って、昔の元気を取り戻しつつある喜びを語ってくれた。
大先輩がわざわざ出向いてくれて励ましてくれました。ご自分も「爆弾」を抱えているというのに本当にありがたいことです。遠い昔、世話になっただけで何の恩返しもしていません。正月などに訪ねて、僕が遠慮なく出されたご馳走をすっかり平らげるのが嬉しかったといわれます。
室戸も寒い一日でしたがこんな再会に恵まれてありがたい一夜でした。