8月4日(土)晴れ
気仙沼大島の休暇村に泊まって午前中いっぱい島内の散歩を楽しみました。40年来の宿願が実現したのですが浄土のようなところです。
宿の周りの朝の散歩、十八鳴浜(くぐなりはま)、亀山からの展望、南端の竜舞崎。
震災の被害のことはすっかり忘れるほど美しい景観の連続です。
亀山では気仙沼高校の同級生だという老婦人二人が何十年振りだかの再会を楽しんでおられました。今は千葉県市原に住む方は石油タンクの炎上に際会した後、故郷気仙沼の火災を知り気が気でなかったといいます。
この島も対岸の火が亀山に燃え移り、一時は島全体が焼けつくすのかと心配されたそうです。あれからたった1年5ヶ月ですがリフトが動いていないほかは亀山に震災の痕跡はありません。
山頂でシャッターを押してあげました。悪夢のような震災がお二人を再び結びつけたのかもしれません。「これが最後かもね」。印象に残る言葉です。
島に橋を架ける計画があるそうです。友人たちにはフェリーのあるうちに訪ねることを薦めます。ここに2・3泊して散歩を楽しめば身も心も軽くなるでしょう。片肺の僕には宿に露天風呂がないことだけが問題点です。
ひこばえの森
一関に帰る途中で旧室根村の「ひこばえの森」に寄ってもらいました。「森は海の恋人」と言う言葉を生み出して、「森」「川」「里」「海」の連環を教えてくれた気仙沼の漁師さんたちが広葉樹の植林にとりくんだところです。
今回の津波で気仙沼湾の牡蠣養殖場も壊滅したと聞きます。しかし、この森の入り口に立つ『復興祈願植樹』の標識を見ると再生への希望を強く感じます。
「海よ、甦れ」。森を再生させることこそが海の甦りの原点です。海だけではありません。傷ついた地球という星の甦りの原点でもあります。
年月を重ねた地道な取り組みが生んだ森が広がっています。おいしい水が湧き出す森です。その恵みの水をいただいて休憩しました。
この旅の最後は一関市千厩(せんまや)です。職場の同僚だった高橋一夫さんの故郷です。旧満州で父を喪った(沖縄戦)母子が引き揚げ後、ここで暮らしたと聞いています。
街のど真ん中に「夫婦石」がありました。ご立派。近くの社屋には人の手になる「金精さま」が幾体も奉納されています。先住民の時代からのおおらかな自然観・人間観を垣間見るようです。
千厩観光協会の案内板にはこうあります。
「太古北の沢、天王山を挟んで流れる大河弓手川の激流は土砂を浸蝕し、この地に花崗岩から成る巨大な男女両性の象徴が奇しくも出現した。神道も仏教もない時代、この自然の偉大な造形に我々の祖先は眼をみはり崇敬の念をもって神として祀った。
雄然たる龍頭は列強なる陽茎に支えられ天地正大の気、この地に発する観あり、男石の後ろに日本の美風を堅守し豊満にして慎ましやかな女石は、谷間の白百合の如く万人の感動をよぶ。この赤裸々な自然の成せる好一対の象徴は蓋し希有にして本邦一の景観である。」
何年か前、二戸では町内ごとに金精さまを山車に載せて街を引き回す祭りに遭遇したことがあります。
川越だより「二戸」●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/5468e4c605d36de988b620d7745b9c9c
性が極端に商品化している現状は性の解放とは無縁です。おおらかに性を語る東北の町の人々の只中で育ったら僕ももう少し心豊かな人間になれたかも知れません。
駅前の「さかいや製菓」に寄って境 良(まこと)さんにお会いしました。一夫さんの同級生です。
東京の製菓学校に学んだ後、故郷に帰り、奥さんとともに菓子作り一筋に生きてこられた方です。
看板商品に「しいたけサブレー」「アマランサスサブレー」のほかに「夫婦石ロール」があります。かの夫婦石をイメージしてシロ餡と小豆餡をカステラの生地で巻き込んだロール菓子です。(僕好みのおいしい和菓子・帰ってから夕食後に毎日いただきました)。
千厩の自然と人を愛してやまない方でしょう。地元の食材にこだわり、地域に密着した菓子作りに精を出しているようです。突然現れて友達の友達と名乗る僕にお菓子の土産を持たせた上にご自分が撮った春先の室根山の写真をプレゼントしてくれました。
遠い昔、一夫さんも友人たちとともにこの山に見守られながらこども時代をすごしたのでしょう。目の前の駅から二両編成の列車が気仙沼方面に発車しました。背後にその室根山が見えます。
最後の最後に一夫さんが育った母子寮を訪ねました。人影がないので近くの畑で働いている方に聞いてみました。千厩町が一関市に合併された二年ほど前に廃寮となったそうです。88になるという佐藤豊作さんは申し訳なさそうです。珪石の鉱山だったという裏山は今、町営の野球場になっているといいます。
高橋さんは東京で就職後、世話になった母子寮に文学全集を送り続けた、と聞いたことがあります。送り主を告げず、書店から送ったとも。安月給の時代に生活を切り詰めながらやり続けたのではないか、と思われます。
もう半世紀も昔の話です。その本たちの消息を尋ねるのはもともと無理だとは承知していたのですが、廃寮とは。いつまでも見送ってくれる佐藤さんに「お元気で!」を繰り返したことでした。