8月29日(火)晴れ
神奈川県海老名市に住む小山義幸くんが来てくれ、昼食をともにしながら4時ごろまで交流しました。1966年4月、都立大島高校に就職した僕にとって最初の生徒になった130人の一人です。当時3年生で、7つ違いの弟のような年頃です。
7月に私たちは小山くんの故郷・北海道歌志内市を訪ね、貴重な写真集をもらってきました。それを手渡しがてら人生の話を聞きました。41年前、引越しを手伝いに来てくれて以来の来訪です。
丁寧に整理されたアルバムを何冊も持ってきてくれました。歌志内の少年期から大島高校時代までの義幸くんと家族の歩み。
敗戦直後、兵役から東京に帰ったお父さんは当時唯一景気のよかった炭鉱夫になる道を選び歌志内に一族の活路を求めたようです。
男ばかり5人兄弟の4番目として昭和23年(1948年)ここで生まれた義幸くんにとって歌志内・東光一区はまさにふるさとです。中学2年までをここの炭住で過ごしました。
東光一区だけで2000人が暮らしていました。小山一家は炭住街の一番奥、この写真の左上の丘の上にあり、父は真っ黒になって炭鉱で働く傍ら、七面鳥・鶏を飼い、あちこちに畑を作ったといいます。男ばかり5人の子どもを育てるのですから必死だったのでしょう。お母さんは家事の傍らニコヨンをやっていたそうです。
僕が知る限り義幸くんは温厚篤実な青年ですがここではスキーや卓球の得意な少年だったといいます。当時の写真や地図を示しながら子ども時代を語ってくれました。
その思い出の詰まった地が忽然として消え去ってしまったのです。2000人もの人々の生活の場が山野に帰り、一部は産廃工場などになりました。今は住民はゼロです。
別れに当たって写真屋さんで撮った級友たちのプロフィール。今は誰一人、消息がわからないとか。
こんな人生があるんですねえ。僕が運んできた写真集がきっかけになって遠い昔を語り合うことができる友人が一人でも出てくるといいなあ。そんな風に思いました。
9月には結婚式があり、兄弟が顔を合わせるそうです。『炭鉱の記憶』が回し読みされて、故郷への想いが語りあわれるかな。
義幸くんは高校を卒業して早稲田の電器店で働き始めて以来、家庭電器業界一筋。土日が休めないので旧友とは疎遠になったがいい友達に恵まれたようです。
終生の友となったのはアルバイトでであった沖縄出身の青年。日大全共闘の一員として闘ったため大学を首になった方のようです。生涯、喧嘩と言うものをしたことがないという義幸くん、どんな交友だったのかな?覗いてみたい気がします。
その彼も、そして僕と同年の長兄も近年相次いで逝ってしまったとか。
近年、左肺の一部を切除した義幸くんは僕のがん友でもありますが発見が早かったため再発の可能性は低く、元気いっぱいです。
定年後も仕事をしていますが今日のように暇を見つけて旧友とも遊んでくれるとうれしいな。