川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

坊城俊民校長からの手紙(1)人間と政治の関わり

2008-02-07 17:13:56 | こどもたち 学校 教育
 僕は教員になって5年目の1970年度の授業(高3・政治経済)の初めに、担当する全生徒に「5」をつけることを提案しました。このときの校長が坊城俊民先生です。僕らは坊城さんと呼んでいました。坊城さんはぼくにときどき手紙をくれました。先生が亡くなられてもう18年がたちます。僕にとっては大切な坊城さんの手紙を皆さんにも読んでもらいたくて紹介します。

1971年2月16日の手紙(上)

 啓介様
あす朝 話す約束をしたが、女子医大に行く日だった。それは定期のものだが、何か 先日撮られたレントゲンに百円硬貨大のかげが出来たとかで、長くなるかもしれない、診察が。だから一寸書いておく。
 きのう岩井さん(教頭)から、きみがオール5を出したことに関するきみの気持ちをきいた。もともとこの問題では、半年も前に、きみの気持ちは知っていた。それはある一点を除けば、僕の気持ちとほとんど同じものであり、心情としてはよくわかる。ただ 校長としては困ることははっきりしていて、結構だとはいいがたいが。しかし この問題は、なおよく考えるべきだろう。
 僕のことは、大分話したが、要約すると、次のようになる。十代の終わりから五十代も半ばに近い今日にいたるまで、一貫して、僕が行ってきたこと、将来も行わざるを得ないだろうことは、この国のいわば「優雅」のながれを汲んで、現代という乾いた土地にそれを注ぐことである。この乏しい水で、どれほどの芽生えが育つか、知れたものだが、僕は、それ以外のことはしなかった。そうして五十を超えて、この道がいかに困難な、不毛な、絶望的なものかを痛感している。けれども絶望と知りつつも、最後までこの道を歩むだろう。そうしてそれが「人間」の唯一の生き方という風に僕は信じている。「人間」は神ではない。神ではない故に、人間には限界があるべきではないか。それを直視しなければいけないのではあるまいか?
 小学生、中学生のころ、僕は国学者の話をきくたびに、ほとんど本能的に彼等をきらった。僕の結論は、二十代にはすでに決まっていた。「国学者は国文学を毒するものだ。もしも彼等がいなかったら、日本人にとって、日本の文学はもっと身近な、親しいものになっていたはずだ」と。それは二十代になって、彼等の中にも、文学がわかり、偉い人もいるとは思った。けれども基本的には国学者をあまり好まない。なぜなら、日本精神とか、皇国的なものの考え方とか、国学者は政治の次元に文学をおこうとしたから、あるいは、政治の次元からそれを解そうとしたから。 なるほど古事記などにはそもそも政治的意図があったであろう。しかし、中古以後のものは、政治の次元を越えたもの、というか、人間の次元でものを考えている。人間の次元には、政治も入るだろうが、政治は形而下の問題である。人間とは形而下もふくめた、形而上の問題ではないだろうか。
 きみと、一点において違うのではないかと思うのは、人間というものと、政治というものとの関連の仕方ではないかと思う。
 三島由紀夫が、何故、政治の次元に口を出したか。彼は僕のきらいな国学などもかなり、真剣によんでいるし、何しろ、自らあのような死に方までした。それは僕にははっきりとはわからないが、もしも彼が「わかり易い」政治の次元に足をふみ入れなかったら、彼の文学は、それほど読まれないであろう。「わかりにくい」その文学を一人でも多くの人に読ませるためには、彼は敢えて、政治の次元にまで口をはさんだのではあるまいか。口をはさまなければ、それは僕ほどではないにしても、僕にもっと近似した存在で終わるだろう。 

国籍取得特例法制定を求める緊急集会

2008-02-06 13:34:15 | 在日コリアン
      国籍取得特例法の制定を求める緊急集会

 08年3月9日(日)2時~4時
 会場 在日韓国YMCA
  JR「水道橋駅」徒歩6分、「御茶ノ水駅」徒歩9分、地下鉄「神保町駅」徒歩7  分

  〒101-0064 東京都千代田区猿楽町2-5-5
  TEL:03-3233-0611 FAX:03-3233-0633
  E-MAIL:ayc at ymcajapan.org
  http://www.ymcajapan.org/ayc/jp/

  
 会費 無料
 内容 ①主催者・経過報告 李敬宰(確立協会長)
    ②リレートーク「なぜ、この法律の制定をもとめるのか」
     全国各地で法制定を求めてきた方々(10分程度ずつ数人)
     会場参加者(5分程度ずつ、なるべく多く)
    
    ③集会決議
 主催 在日コリアンの日本国籍取得権確立協議会
    電話・049-224-4646
       03ー3802ー2220
   自民党の国籍問題プロジェクトティーム(河野太郎座長)が「特別永住者等の国籍取得特例法案」を国会に提出する方針を決めました。この法案の柱は在日コリアンなどの特別永住者(40余万人・植民地支配を受けていた時代から日本に住み続けてきたコリアン等およびその子孫)に限って、届け出だけで国籍取得が出来るようにすることです。
 こんな画期的なことをするのには歴史的な反省があります。推進者の一人・太田誠一議員は次のように述べています。
 「戦後、本人の意思を聞かれずに韓国朝鮮籍になった特別永住者に『申し訳ない』ということで簡単に国籍を取得出来るようにするもの」(『朝日新聞』1月25日)

 1952年4月28日、日本の連合国からの独立に際し、日本政府はたった一片の通達で在日コリアンの日本国籍を剥奪し、外国人にしてしまいました。彼等はこの日から主権者の地位を失い、選挙権・被選挙権を行使できなくなったばかりか、社会保障の権利も奪われました。のちに国民年金制度が作られたときにも外国人であるとして排除され、在日コリアン一世の大半は今日、無年金生活を余儀なくされています。
 朝鮮半島が日本の植民地であった時代から日本に住み、日本国民として生きてきた方々の一人一人の国籍選択権を認めなかったことは国際法に悖(もと)ることでもあります。太田議員が『申し訳ない』と言っているのはこのことをさし、遅まきながら、実質的に国籍選択権を認めるということです。
 
 私たちは2001年に与党案として成案を得たにもかかわらず、店(たな)ざらしにされてきた法案がようやく国会に提出されると聞き、今回こそなんとしても成立させたいと強く願うものです。在日コリアンの国籍選択権を認めることは日本の民主主義の基盤を強化することでもあります。国籍、民族を問わず、市民の皆さんの参加を呼びかけます。

北朝鮮・敗戦前後の記録(下)

2008-02-04 22:32:15 | 父・家族・自分
 2日(土)は「六十路の会」で小沢屋と我が家で夜遅くまで交流しました。勝義さんは泊まってゆっくりして昨日午後雪がやんでから帰られました。「六十路の会」のことは他日。

弘松典夫さんの「終戦前後の吾が略歴」の最終回です。朝鮮・釜山から日本へ。
  
 1946(昭和21)9・15~23
 レパシティー(米軍上陸用舟艇)に乗船ー佐世保入港・検疫のため一週間碇泊ー 佐世保収容所へ泊ー高知へ引き揚げる
  電車の終点・安芸駅に帰国第一歩を印す。引き揚げ者収容所にて当座をしの  ぐ。
  
 9・   本籍地・田野の役場に出頭、帰還を届け出る。(略)
 
 ?・   高知県野根国民学校助教諭として再採用。直ちに赴任 月俸85円給 与 校長・竹内熊重氏。髭を伸ばしていたのが印象的。人格に敬服、日を経るに 随い意気投合。嘗てご真影奉安殿としていた部屋を当座の仮住まいとする。

 12・21 南海大地震に遭遇。午前四時過ぎ、天地鳴動する。屋根瓦がすべり 落ちる音、壁が崩れて今にも天井が落ちかかってくる気配。上下左右の動揺に身 をまかす。家族一同机の下に頭をつっこむ。少しも慌てず。夜が明けて外に出て みる。被害が並々でなかったことを知る。家屋倒壊多数、死者若干。

 47・5・1  奈比賀小学校長に任命される
 49・?・1  馬ノ上小学校に転勤
    9    教職員免許法改正施行により現職教員に対する夏期認定講習は         じまる。初年度受講。
 51・3・31 室戸小学校に転勤(専任教頭)校長 坂井為利氏
 53・3・31 高知県教育委員会事務局主事に補せられ安芸教育事務所主事と         して勤務(人事担当) 所長・池沢久我男氏と同時赴任。
 

 三十歳の弘松さんが北朝鮮・新義州で迎えた敗戦の前後の様子がよくわかる記録です.
 岩波・近代日本総合年表によれば1927年4月から「師範学校卒業者の現役服務、1年間から5ヶ月になる」とあります。ちょうど父が師範学校を卒業した年から5ヶ月軍役を勤めるといざという場合、下士官として任用された訳です。弘松さんは敗戦間際召集され、教員としてではなく、陸軍伍長として敗戦を迎えたのです。
 植民地・朝鮮で生まれ育った弘松さんがどんな考えを身につけて教育に当たっていたのか、敗戦後の体験をどう受け止めたのか。それと「勤評は戦争への一里塚」といって、勤評に職を賭して反対した運動はどうつながっているのか。などなど、佐倉にお尋ねしたとき、伺ってみたいと思います。
 引き揚げ体験記では船で38度線を越えたというのが僕には意外でした。38度線を歩いて越える苦難の記録や話ばかりを聞いてきたからです。「後記」に「詳述」されているそうですから、読ませてもらいたいと思います。
 竹内熊重という名前は高校生の時、新聞で知ったように思います。勤務評定を阻止する闘いとかかわって。池沢久我男先生は一時、室戸岬中学校の校長でそれこそ父とは肝胆相照らす仲のように見えました。家の表の間で夕方から朝まで二人で語り合っていたのです。池沢先生は父と同じく酒豪ですが、刺身一切れを表にしたり裏にしたりしながら何時間も過ごすということで我が家では有名でした。1950年過ぎの朝鮮戦争の時期ということになりますが、弘松先生もこの頃仲間に加わったことになります。どんな話をしていたのかタイムスリップして聞いてみたいものです。


 
 





北朝鮮・敗戦前後の記録(中)

2008-02-02 08:01:39 | 父・家族・自分
 弘松典夫さんの「終戦前後の吾が略歴」の続きです。昭和20年、弘松さん30歳。北朝鮮・新義州、敗戦直後。


 ○ 職を奪われ、生活の糧が得られず、当分は貴重品・衣料・家具等の売り食いにより生活をつなぐも帰国の見通しもなく、厳寒の冬を越年の場合も考えて、本川氏、佐藤視学等と共に水飴の行商、或いは鋸と斧をたよりに朝鮮人家庭の薪割り、又は、水道の下水工事人夫となって働く……馴れぬ仕事に ひと苦労……
 
 ○ 新義州・双葉校時代の上司(本川憲校長)が保安隊員によって拉致され、刑務所に連行されたと聞く。この頃、日本人の財閥・司法警察関係者等、続々逮捕され、警備課長ほか数名、非業の死を遂げたと聞く。この事実と関連して本川氏の身辺を気遣う。
 在職中、日本人女教師(浜田三三子)にかかわる朝鮮人学童体罰傷害事件の教唆の疑いによることが判明。憎悪の目が邦人に注がれ、行動が監視される中を、危険をおかして助命のため東奔西走。その工作に尽力する。(詳細を略す)
 
 ○家宅接収はじまり、住み家を追い出される家族続出。倉庫等を仕切って、仮住居にし、多いところでは、20世帯ぐらいが雑居。嘗ての行政機関にあった高官達も同じ憂き目にあう。幸いにして、我が家は朝鮮人の教え子に譲ることとして、茶の間の一室と六畳一間の使用を認めて貰う……(あとでは茶の間のみに追い込まれる)……洋子たち(母共に)も家を追われ此処に引っ越し同居。

 ○ 在留邦人の若い男が次々と駆り出され、シベリヤ・北満方面に送られる。所謂、強制労働に服させる捕虜要員である。当年30歳であった自分も当然、該当者であったが幾度か、危機を脱する。◎前記の水道工事で働いていたときなどは当に間一髪というところで、今思えば身の毛がよだつ。妻や三人の幼子を抱えている身にしてあればことさらのこと。

 1946(昭和21)・6・22  四男義生出生。不自由な抑留生活中に呱々の声をあげる。於 新義州府栄町六丁目

 この夏から日本人ぼつぼつ陸路を南下して北鮮(原文のまま)を脱出しはじめるも、38度境界線通過はきわめて至難。中には引き返してくる者、途中銃殺される者、成功して南鮮(原文のまま)へ逃れる者、さまざま。穏忍自重してじーっと機を伺う。

 8・22 或る程度の安全を確認して引き揚げ移動開始(引き揚げ第一陣に加わる。子連れと病人を抱えた家族)。終結した者約500名。

 使用に耐えなくなった小型漁船五隻で編成。難破・沈没等は覚悟の上。食糧として、焼き米にカンメンポー(戦時中、軍隊が使用した携帯食料で、ビスケットに似たかたパン)、炒り豆、水など約5日分。
 ポンポン蒸気の曳航船で10トンから15トン級の帆船4隻をロープで連結、新義州より出港。夕刻、ようやく大海に出る。5日がかりで南鮮(原文のまま)の仁川港へ。(詳述は後記へ)
 隆紀(6歳)正典(4歳)章則(2歳)義生(生後2ヶ月)

 8・27 仁川港上陸ー京城(日本の植民地時代のソウルの呼称)の収容所で7泊ー貨車に積み込まれて釜山へ(貨車の中は馬糞でプンプン、どうせ軍用列車の馬運搬用車両)ここでも収容所へ3泊

北朝鮮・敗戦前後の記録(上)

2008-02-01 21:18:06 | 父・家族・自分
 高知県室戸小学校で1951年から2年間、父(校長)の同僚(教頭)だった弘松典夫先生(以下、弘松さん)が送ってくださった記録「終戦前後の吾が略歴」の一部を紹介します。
 弘松さんの父上は司法職で、台湾、関東州、朝鮮と植民地で働いた方です。弘松さんは併合後の朝鮮で生まれ、教員として働いていたのですが1944(昭和19)年4月に「朝鮮総督府平安北道視学・学務課勤務」を命ぜられ、南新義州の官舎に住むことになります。新義州は中国との国境の町。

 1944(昭和19)年11月  家具・衣料等の疎開 本川氏宅と共に疎開荷   物を義州の朝鮮人民家に預ける。
 1945・7月末  召集令状を受ける。朝鮮7413部隊・中隊本部付陸軍伍   長として勤務       (ソ連軍満州進攻 8・8)
   宣川以南に陣地構築のため部隊は移動開始・対戦車作戦(タコツボ掘り)
 1945・8・15  師団司令部に兵2名を率いて命令受領のため平壌に赴く   途中、終戦の詔勅を聴く。召集解除。忽ち輸送列車運行不能となり、辛うじ   て貨車を利用して帰郷。    (第2次大戦終結)

 
 ○  以降在留日本人に対する現地人(朝鮮人)の動き頗る険悪なるものあり。非常事態に備えて警備隊に家族共に終結の密命も流布。幸いにして大事には至らず。
 
 ○ 2・3日後、疎開荷物を受け出すため、約12km離れた朝鮮人に軍刀をはい刀、軍服姿で単身乗り込む。その威圧に恐れて、荷物を引き渡す。不穏な顔で数名の者が見送る中を悠々と引き揚げる。疎開荷物中にはマス子結婚以来の可成り高価な訪問着、紋付き、モーニング、洋服等あり。トラック一台傭って往復。本川、福山夫人の疎開荷物と共に無事引き揚げる。

 ○ ソ連軍進駐と同時に官公庁のすべてが接収され、日本政府によるすべての機能停止。嘗て勤務していた道庁庁舎は駐留ソ連軍司令部となり、C・C・C・Pの赤旗翻る。

 ○ 残務整理打ち合わせの為、学務課員14名、課長の私宅で談合中のところ、突如、朝鮮人保安隊員土足のまま、荒々しく座敷に浸入。ピストル・銃剣をつきつけて手錠をはめ、捕縄で数珠つなぎにした上、外に連れだし、保安隊に連行される。生まれてはじめてかけられた手錠の感覚は如何にも冷たかった。夕刻、この報せが家族にも届き心配する。長時間にわたり取り調べを受けた上、夜おそく釈放となる。敗戦の身、抵抗のすべなし。
 
 ○ 武装解除と同時に軍刀の供出方を指令。頻りに市中をマイクでがなりたてる。「応じない場合は発見次第銃殺する……」との厳命。覚悟を決めて、最期まで彼等に軍刀を渡さず。数日後の夕刻、とうとう意を決して鞘を解体、刀身のみをひそかに裏庭の土中に埋め込む。 (折から月、皎々と照りわたる)