川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

「先輩はありがたいなあ」 猛暑の16日行動記

2012-08-17 10:19:24 | 川越・近郊

8月16日(木)晴れ

 晴れて暑い一日になりそうです。今日も「けいすけ号」に跨って関東平野をさまようことにしました。動き回るのが暑さ対策の肝要です。

①入間川自転車道  狭山・柏原の「えびぜん」に寄って中高の同期生・米沢くんの声を聞く。相変わらず、早朝から惣菜作りに精を出してい

る。社長ともなればなかなかのんびりゆっくりというわけにはいかないらしい。

②入間川を渡って堀兼方面に向かう。途中にある石橋先輩(教育大学新聞会)の家に寄ってみた。畑仕事から帰られたばかりで上半身は

裸、70台の半ばだが元気いっぱい。

ニンニクとジャガイモを自転車かごいっぱいに持たせてくれた。僕は手術以後、ニンニクをなるべく毎日食べるようにしている。そんな話を

前にしたことがある。石橋さんはそれを覚えていて何かの機会にお会いするとご自分が作ったニンニクを持たせてくれる。ありがたいことで

ある。

北海道の空知でボタ山に登ったと報告したら大牟田(三井三池)にはボタ山がなかったと意外なことを教えてくれた。炭層が優秀でボタに

なる余地がなかったのか。「炭鉱町で育ちながら俺はボタ山を知らなかった」といっておられた。11月には今年も石橋農園の収穫祭がある

とのこと、今年はどなたにお会いできるかな。

③赤坂の森で一休みして新河岸の「曼荼羅」を目指す。狭山事件の被害者・中田善枝さんの墓地の横を通った。遠くに中田家も見えた。

(事件から来春は50年、無実を叫ぶ石川一雄さんの再審は認められるのか)

このあたりは見事なサトイモ畑が広がっている。

④「麺や 蒼天」●http://ameblo.jp/torappo/entry-10937992081.html

 曼荼羅の電話が通じないのであきらめ、川越市中福の交差点近くでラーメン店に入る。ニンニク入りの美味しいラーメンだった。冷房も適度でゆっくり休んだ。

⑤川越(水上)公園

お土産満載なので家路につくことにしたが猛烈な暑さである。急遽、水上公園のプールによる。今シーズン3度目だが「いもを洗うような」混雑振りだ。(このところパンツやタオルはリュックに常備)。こ一時間で切り上げて池畔のベンチで仰向けになる。まっさおな空。

帰宅は5時過ぎ。室温は34度。今日も元気に消夏できてなによりだったなあ。

美味しいカレーの夕食後「寅さん」上映会。「男はつらいよ 旅と女と寅次郎」(1983年8月公開)。出雲崎での失踪した都はるみとの出会い。佐渡に遊ぶ二人。都はるみの歌が随所に出てきて秀逸。

涙の連絡船●http://www.youtube.com/watch?v=AuhNBfuHVn4&feature=related


2012年8月15日 川越・さいたま

2012-08-16 04:08:52 | 川越・近郊

8月15日(水)晴れ

よく晴れてきたので10時半から自転車こぎに出かける。

①氷川神社境内にある護国神社 川越市の靖国神社のような社だが参詣する同年輩が一人、二人。静かで格別の行事はない模様。

写真: 8月15日 川越護国神社

②川越市戦没者慰霊塔  氷川神社の前の公園脇にある。入り口の鍵もしまったまま。

写真: 8月15日 川越戦没者慰霊碑

③埼玉県護国神社 大宮公園にある。12時過ぎ到着。「みたま祭り」が行われていた。参列者100人あまり、か。静かでひっそりした感じだ。

 玉ぐしをささげている最中、遺族といわれて起立した方々が数十人。僕と同世代の感じ。戦没者の子が中心だろう。後は英霊にこたえる会、自民党議員などの名前が呼ばれていた。

最後に祭主?大宮氷川神社の宮司さんの挨拶があった。「遺族は英霊の真の姿を知っている。それを人々に伝えてほしい」「日本人であることを誇りに戦った、云々」。

遺族とはいっても「英霊」の子であり、小さくて父の記憶がないか、あってもあいまいな人が多いのではないか。

戦争で父を喪った友人・知人の何人かを思って違和感を感じた。苦難の人生を生き抜いた話ならどなたにもできるだろう。

④大宮盆栽美術館

 近くの盆栽村に行ってみた。関東大震災の後に東京(駒込あたり)から引っ越してきたらしい。新しくできた盆栽美術館には「国際交流基金」で日本語を習っている外国の人たちがバス2台で来ていて賑やか。

これは「蝦夷松」の盆栽。カラマツ(北海道では「落葉」といっていた)の森のミニチュア。よくもこんな作品を作れるものだ。黒松のそれもあったが写真はNO.

⑤荒川・入間川土手 上江(かみごう)橋をわたって帰った。遠くに富士。この季節には珍しい。

  

 8月15日はたいてい父について室戸岬の慰霊塔に行った。父の生徒だった百数十人の名前が刻まれている。僕の友達のお母さんの姿があった。戦争で夫を喪った。

「先生のせいではありません。時代の流れでした。」そんな言葉をI君のお母さんから聞いたことがあった。

土手上の道でペダルを漕ぎながらそんな出来事を思い出していた。戦犯だと言っていた父の胸中はどんなものだっただろうか。I君のこと

も思った。涙がにじみ出てくるのを感じた。

参考 ①川越だより●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/ef2b15d5eed96f7600a5400f3f38a5e7

②●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/4b9a4a47f4bf0a364b7b69155db46260

 

 


67回目の敗戦記念日に思う

2012-08-15 09:40:00 | 政治・社会

日本の周辺の雲行きが怪しくなっています。

 ロシアの大統領が「北方領土」(南千島)を訪れて永続的な領有を宣言したのに倣ったのか、韓国の李大統領が竹島を訪問してみせました。

これを合図にしたかのように韓国の「反日」はなんでもありの様相を呈してきました。大統領が先頭に立つ決意を示したので国民がいっそ

う鼓舞されているのでしょう。大統領は「天皇が来たいのなら独立運動家に謝罪しろ」とまで言い放ったとか。大統領の発言はオリンピック

の対日戦勝利後にプラカードを掲げて見せたサッカー選手の行動とはその意味合いが違います。国の元首の発言です。国を挙げて日本

と戦う決意を示したのです。

 今日は「光復節」です。韓国の大統領や国民がどういう言動を示すか、注視したいと思います。

尖閣諸島の領有(侵略)を公言する中国、日本国民を拉致して知らん顔を続ける北朝鮮。まことに厄介至極な隣国ばかりです。

 今日は67回目の敗戦記念日です。米英中蘭など世界を相手に戦った「大東亜戦争」の敗戦から67年になりました。

僕は憲法施行の翌年(1948年)に小学校に入学しました。憲法の落し子のような存在です。勉強、特に社会科が好きで「優等生」でした

から大体において教科書の精神を体現した育ち方をしました。「非武装」「戦争の放棄」はその中核をなす考え方です。大人になるにつれ

てその憲法がアメリカの占領政策の一環であったことも知りましたが身についた「非戦」「非暴力」はもともとの臆病心や理想主義とあいま

って僕の中では今でも譲ることのできない行動規範です。ですから「戦争はどんなことがあってもやらない」「国際紛争は平和的に解決す

る」という国策がともかくも維持されていることに安堵しています。僕の世代には同じような思考回路を持つ人が多いのではないかと思わ

れます。

 近隣の諸国においては僕の受けたような教育は行われてはいません。富国と強兵は一体であり、いつでも戦争ができるように準備して

おくのが国家としても国民としても当然だと考えられており、教科書は愛国主義で満ち溢れています。日本のような国は近隣には存在せ

ず、臆病で軽蔑すべき存在と思われているのかもしれません。

 戦争に負けて67年、次第に仲良くなれるかと思ってきた隣国との問題解決がいよいよ困難になり、相手は居丈高になってくる気配です。

どうやってこの難局を乗り切るか?

それでも「戦争はどんなことがあってもやらない」という原理原則だけは譲りたくはありません。そのためにどうしたらよいのか、いよいよ真

剣に考えるほかはありません。破滅的な原発推進政策に非暴力の抵抗を粘り強く続ける若者たちの金曜デモ・集会が大切なヒントを

与えてくれていると僕は感じています。民主主義・人権を徹底して尊重し、非暴力不服従の国民運動を展開することが国民の共感を広げ

団結力を高めることにつながる、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


これぞ銘菓  岩手・千厩のアマランサスサブレーとしいたけサブレー

2012-08-14 11:11:12 | 出会いの旅

8月13日(月)

 前夜遅く娘夫婦がやってきたので、家園で昼食会としました。川越での披露宴。店主夫婦が喜んでくれました。

 披露宴のご馳走で夕食は無理です。

先日、岩手県千厩の境良(さかいまこと)さんにお土産にいただいたサブレーでコーヒータイムとしました。

アマランサス サブレー   しいたけサブレー

 アマランサスサブレーとしいたけサブレー これがなかなかのものです。地元産の食材を生かして体に優しいお菓子を作るという境さんの哲学の結晶なのでしょう。ついつい食べ過ぎてしまいます。

以下は、食いしん坊の妻の感想。

ひとかけら口に入れたらバターの豊かな香りが口中にひろがりました。ん、これは?と思って念のために袋の裏をひっくり返してみました。加工食品を買う際にわたしが必ずやる原材料の確認です。(頂き物のときは、こころもちひかえますが。)〈小麦粉、砂糖、バター、卵、膨張剤、粉末しいたけ〉これが「しいたけサブレー」。「アマランサスサブレー」の袋には〈小麦粉、バター、砂糖、卵、アマランサス粉、塩、蜂蜜、牛乳、膨張剤〉とありました。マーガリン、植物油、レシチン、ステビアといったおなじみの「代用品」は一切なし。麦芽糖、水あめ、オリゴ糖、香料の記載もありません。

 びっくりしました。おかあさんが台所でつくるときの材料しか使ってないんです。美味しいはずです。これこそ本当の「手作り」。お店の裏(たぶん)の工場で、奥さんと二人で作っているからできることで、大手メーカーには、逆立ちしてもできない芸当です。

 境さんの人柄そのものがお菓子になっているようです。千厩という町は、こういう人が育まれ、暮らしていける町なんですね。お菓子のむこうに境さんと高橋さんのあたたかな笑顔が浮かんできました。

 境さんのお話では、しいたけは、奥さんのご実家で作っているものなのだそうです。「ところが、福島原発事故のせいで今年の干ししいたけはセシウムが検出され、全部焼却処分してしまった。だから、うちでは原発事故以前の古いしいたけを使っているんです」と、話してくださいました。

 無残なことです。こういうことを一切無視して、目先の採算だけで原発再稼動をごり押ししていく強欲な経済界と愚かな愚かな、愚かな政治家どもに怒りを通り越した憎悪をかみしめています。せっかく世にも美味しいサブレーを食べながら、です。

 参考記事●「さかいや製菓」http://ichigi-sen.sakuraweb.com/3kigyo/sakaiyaseika.html


全国民の宿題

2012-08-13 10:27:49 | 父・家族・自分

8月12日(日)

Facebookで陽子さんや孫さんがエネルーギー政策について提言しているのを知りました。政府が意見を公募していると言うのです。締め切り間際ですが僕もあわてて書いて提出しました。

政府は8月12日18時までに自分の意見を書いて提出するように全国民に宿題を出したのです。どのような意見があったか、きちんと報告し、エネルギー政策の確立に生かさなければなりません。

僕は試験をやらない教師でしたが年に数回、みんなの意見をテーマ別に整理して印刷配布しました。さまざまな意見に目を通して自分なりの考えを確立することが民主主義の社会に生きるものの生活態度だと考えたためです。

 

提言 2030年を待たず全原発を直ちに廃止すべきです。

理由 ◎福島第一原発の事故を体験して、原発と人類は共存できないことがわかったからです。

 ①原発を100%安全に運転することは不可能なことであり、ひとたび事故が起こればその災厄は子孫まで及ぶことがわかりました。

 ②使用済み核燃料の再利用などは夢物語であり、原発ごみの処理の方法がないことがわかりました。ここまま原発の運転を続ければ遠い未来の人類にまで災厄が及びます。

     ◎節電に協力することで、今でも原発なしでやっていけることがわかりました。

 自然エネルギーの開発、発送電の分離、地域独占の廃止などの施策を推進することで化石燃料に過度に頼る現状も克服できます。

 日本人は古来自然とともに生きる知恵を身に付けてきた伝統があります。原発事故を画期として過度の科学技術信仰と決別し、自然の

 恵みに感謝しながらつつましく生きる生活態度を確立して世界の見本になったらどうでしょう。

 世界中に災厄をもたらした責任をしっかり自覚することが何よりも重要だと思います。


甦れ 東北 被災地の旅の終わりに

2012-08-12 12:36:07 | 出会いの旅

8月4日(土)晴れ

 気仙沼大島の休暇村に泊まって午前中いっぱい島内の散歩を楽しみました。40年来の宿願が実現したのですが浄土のようなところです。

宿の周りの朝の散歩、十八鳴浜(くぐなりはま)、亀山からの展望、南端の竜舞崎。

震災の被害のことはすっかり忘れるほど美しい景観の連続です。

 亀山では気仙沼高校の同級生だという老婦人二人が何十年振りだかの再会を楽しんでおられました。今は千葉県市原に住む方は石油タンクの炎上に際会した後、故郷気仙沼の火災を知り気が気でなかったといいます。

 この島も対岸の火が亀山に燃え移り、一時は島全体が焼けつくすのかと心配されたそうです。あれからたった1年5ヶ月ですがリフトが動いていないほかは亀山に震災の痕跡はありません。

 山頂でシャッターを押してあげました。悪夢のような震災がお二人を再び結びつけたのかもしれません。「これが最後かもね」。印象に残る言葉です。

 島に橋を架ける計画があるそうです。友人たちにはフェリーのあるうちに訪ねることを薦めます。ここに2・3泊して散歩を楽しめば身も心も軽くなるでしょう。片肺の僕には宿に露天風呂がないことだけが問題点です。

  

 ひこばえの森

 一関に帰る途中で旧室根村の「ひこばえの森」に寄ってもらいました。「森は海の恋人」と言う言葉を生み出して、「森」「川」「里」「海」の連環を教えてくれた気仙沼の漁師さんたちが広葉樹の植林にとりくんだところです。

 今回の津波で気仙沼湾の牡蠣養殖場も壊滅したと聞きます。しかし、この森の入り口に立つ『復興祈願植樹』の標識を見ると再生への希望を強く感じます。

「海よ、甦れ」。森を再生させることこそが海の甦りの原点です。海だけではありません。傷ついた地球という星の甦りの原点でもあります。

年月を重ねた地道な取り組みが生んだ森が広がっています。おいしい水が湧き出す森です。その恵みの水をいただいて休憩しました。

この旅の最後は一関市千厩(せんまや)です。職場の同僚だった高橋一夫さんの故郷です。旧満州で父を喪った(沖縄戦)母子が引き揚げ後、ここで暮らしたと聞いています。

 街のど真ん中に「夫婦石」がありました。ご立派。近くの社屋には人の手になる「金精さま」が幾体も奉納されています。先住民の時代からのおおらかな自然観・人間観を垣間見るようです。

千厩観光協会の案内板にはこうあります。

 「太古北の沢、天王山を挟んで流れる大河弓手川の激流は土砂を浸蝕し、この地に花崗岩から成る巨大な男女両性の象徴が奇しくも出現した。神道も仏教もない時代、この自然の偉大な造形に我々の祖先は眼をみはり崇敬の念をもって神として祀った。

雄然たる龍頭は列強なる陽茎に支えられ天地正大の気、この地に発する観あり、男石の後ろに日本の美風を堅守し豊満にして慎ましやかな女石は、谷間の白百合の如く万人の感動をよぶ。この赤裸々な自然の成せる好一対の象徴は蓋し希有にして本邦一の景観である。」

何年か前、二戸では町内ごとに金精さまを山車に載せて街を引き回す祭りに遭遇したことがあります。

 川越だより「二戸」●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/5468e4c605d36de988b620d7745b9c9c

性が極端に商品化している現状は性の解放とは無縁です。おおらかに性を語る東北の町の人々の只中で育ったら僕ももう少し心豊かな人間になれたかも知れません。

駅前の「さかいや製菓」に寄って境 良(まこと)さんにお会いしました。一夫さんの同級生です。

東京の製菓学校に学んだ後、故郷に帰り、奥さんとともに菓子作り一筋に生きてこられた方です。

看板商品に「しいたけサブレー」「アマランサスサブレー」のほかに「夫婦石ロール」があります。かの夫婦石をイメージしてシロ餡と小豆餡をカステラの生地で巻き込んだロール菓子です。(僕好みのおいしい和菓子・帰ってから夕食後に毎日いただきました)。

 千厩の自然と人を愛してやまない方でしょう。地元の食材にこだわり、地域に密着した菓子作りに精を出しているようです。突然現れて友達の友達と名乗る僕にお菓子の土産を持たせた上にご自分が撮った春先の室根山の写真をプレゼントしてくれました。

 遠い昔、一夫さんも友人たちとともにこの山に見守られながらこども時代をすごしたのでしょう。目の前の駅から二両編成の列車が気仙沼方面に発車しました。背後にその室根山が見えます。

 最後の最後に一夫さんが育った母子寮を訪ねました。人影がないので近くの畑で働いている方に聞いてみました。千厩町が一関市に合併された二年ほど前に廃寮となったそうです。88になるという佐藤豊作さんは申し訳なさそうです。珪石の鉱山だったという裏山は今、町営の野球場になっているといいます。

 高橋さんは東京で就職後、世話になった母子寮に文学全集を送り続けた、と聞いたことがあります。送り主を告げず、書店から送ったとも。安月給の時代に生活を切り詰めながらやり続けたのではないか、と思われます。

 もう半世紀も昔の話です。その本たちの消息を尋ねるのはもともと無理だとは承知していたのですが、廃寮とは。いつまでも見送ってくれる佐藤さんに「お元気で!」を繰り返したことでした。

  写真: 千厩町の佐藤さん。88の今も畑田んぼ作りに精を出し続けておられる。どうぞいつまでもお元気で

 

 

 

 

 

 

 

 

 


カリヨン気仙沼公演 二世代の熱演

2012-08-11 07:32:31 | 出会いの旅

 8月3日(金)

カリヨンの大震災復興支援コンサートが気仙沼・愛耕幼稚園であるというので僕らも観客の一員にしてもらいました。平松あずささんを中心とする若い音楽家たちのグループです。

 幼稚園は夏休み中ですが定刻の10時半にはホールは親子連れでいっぱいです。

 熱演にほだされていつしか幼稚園児になっていました。たまに聞き知っている歌に出会うとどら声が自然に出てきてからだがゆれます。これはこれでなかなかいい。

あずささん一行は川崎から9時間かけてワゴンできたといいます。お連れ合いが運転し、ふたりのお子さんも一緒。お母さんはファッションとお化粧の担当、お父さんはヴィデオ撮影。

家族がひとつになってお友達とともに社会の一員としての務めを立派に果たしています。本当にすごい家族だなあ、あらためて思ったことでした。

あずささんのブログを覗いて見ました。精一杯、ひたむきに生きる音楽家の思いに触れた気がしました。

 あずささんのブログ●http://ameblo.jp/carillon-music/entry-11321450354.html

写真: カリヨン公演の応援団じいさん組

 カリヨン気仙沼公演応援団じいさん組

右はあずささんのお父さん(僕のがん友)、真ん中は気仙沼の村上さん。娘さん夫妻があずささんのお連れ合いの友達だということで村上さんご夫妻がカリヨン気仙沼公演の実行部隊を買って出たようです。カリヨンの公演を支えたのは親の世代であったのです。これもなかなかです。

若い人たちのまっすぐな思いをきちんと受け止めてその公演の成功に力を貸した爺さん婆さん組(ゴメン!)に心から拍手を送ります。

あずささん父君のブログ●http://m-heychan.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/81-3-7bcf.html

 

 

 


復興への胎動  陸中・陸前海岸

2012-08-10 09:14:07 | 出会いの旅

8月2日(木)

宮古から気仙沼まで陸中陸前海岸を走りました。南下につれて津波の被害が深刻です。

①重茂(おもえ)

美しい宮古湾に沿って走った後、重茂半島を一周しました。ここは30年ほど前、家族で訪ねた印象深い土地です。立派に整備された重茂港に昔日の面影はありません。その港が破壊はされたのですが復興は着実に進んでワカメの水揚げも始まっています。

 明治の大津波でやられ学校は高台に移転したとこの碑にはかかれていますが、このあたりの民家は今回もまたきれいさっぱりやられてしまいました。

 ②大船渡

山田・大槌の惨状は筆舌に尽くしがたいものです。町全体が巨大な廃墟となりました。読者が訪問して目にすることをお勧めします。

 大船渡港では瓦礫の山の近くで祭りの準備が進んでいました。御用済みの港湾整備の船を利用してステージが作られています。大漁旗がはためいています。地元のTV局とラジオ局が取材中です。港町らしい祭りの復活です。

③陸前高田

壊滅した街でも松林はそれなりに残っているように感じましたが高田は別です。彼の「一本松」だけが遠くに見えます。このあたりから「立ち入り禁止」です。

 

④気仙沼

港からは遠くない住宅地に押し寄せてきた船は一年5ヵ月後もそのままです。多数の民家が押しつぶされたといいます。

 夜、地元の方の案内で「カリヨン」一行が「家庭料理さかい」で夕食会。私たちも加えてもらいました。

モウカサメの心臓の刺身というものをはじめて食べました。さすが、気仙沼です。ビルの2階にあるお店の天井近くまで津波が来たといいます。

 


中国家庭料理「家園」開店4周年おめでとう 川越市宮元町

2012-08-08 21:04:19 | 友人たち

2012年8月8日(水)晴れ

インターネット環境の整備がやっと終了しました。娘におんぶに抱っこから、妻にと代わっただけですが。

予告なく休刊して心配をかけました。土曜日に被災地の旅から帰ってからも元気に動き回っています。

今日は「家園」が4周年を迎えたのでお祝いがてら夕食会?をしました。

いつもながら亭主夫妻の笑顔が迎えてくれました。写真: 中国家庭料理「家園」  河本夫妻  4周年おめでとう

 写真: 祝開店4周年

中国家庭料理 家園@川越宮元町

 こんな経済状況下で見ず知らずの土地でよくもがんばってきたものです。このところ僕はたいてい「タンタン麺」を注文し、おつゆの一滴も残さない食べっぷりです。おいしいのです。

 主人の安祥さんの料理はまさに家庭料理で一人ひとりのお客さんのために心をこめて作ります。だからやや時間がかかります。どうやって待ち時間を短くするか、ここらが課題でしょう。

 奥さんの秋子さんはいつもお店に出るわけではありません。看護婦の仕事の合間に主人を手伝っているのです。どんなときでもこの笑顔が絶えることはありません。芯が強く、やさしい人でなければこうはいかないでしょう。

 今日は秋子さんの笑顔に会えるかな?どきどきしながらドアをあける楽しみがあります。

だんだんと地域の人々に親しまれる店になって、時々は宴会もあるようです。そのせいか、近頃テーブルの並べ方が変わって店が広く感じられます。

 来年の8月8日には開店5周年を賑々しく祝いたいものです。国道254に面しており、地域の人々にはかえって知られぬくい場所かもしれません。僕もビラ配りぐらいは手伝ってPRに一役買おうかと心に決めました。

 

 

 

 

 


子ぐまの歓迎 田老の悲劇 

2012-08-02 08:07:47 | 出会いの旅

8月2日(木)晴れ

 宮古の休暇村にいます。快晴。

昨日は黒崎の定置網漁師さんたちとの交流のあと、鵜の巣断崖展望台駐車場で子熊の歓迎を受けました。

 妻の車が近づくまでこちらを向いていました。写真撮影は残念ながら間に合わず。

8月1日は44回目の「結婚記念日」。よい思い出になりました。

夕方になって宮古市田老の惨状を見ました。街がすっかり消えています。

 

二重三重に防潮堤を張り巡らせたのが逆効果になったといいます。高い堤防のため海の様子がわからず、送られてきた信号をキャッチすることもできなかったのです。また、堤防への信頼が避難を躊躇させた面もあったようです。

「安全神話」がここでも悲劇を大きくしました。ガイドの女性がのどを詰まらせながら話をしてくれました。

ここをたずねるのは40年ぶりです。昭和8年の大津波の被害を受け「万里の長城」とまで言われる立派な堤防を築くなど津波対策で有名な町でした。その堤防が逆効果をもたらした事実を全国民が検証すべきです。

田老では街を高台に移転するようですがどういうわけか14mもある高い堤防を築く計画もあるとか。

今日はこれから宮古・釜石・高田などを経て気仙沼に向かいます。三陸海岸のすばらしい景観と地震津波被害の現実を交互に体験しています。


新造船でがんばる  元マグロ漁師との嬉しい出会い

2012-08-01 07:05:33 | 出会いの旅

8月1日(水)晴れ

岩手県久慈市の山根温泉ベッピンの湯に泊まっています。山里の湯で本当に入るとすぐに肌がつるつるになる気持ちのいい温泉です。目覚めたので深夜にも入りました。

 昨日は暑い一日だったので予定を変更し岩手町から北上山地を横断する国道281で久慈に向かうこととしました。

葛巻高原牧場でゆっくり過ごしました。この町は村おこしに懸命でワインの醸造にも取り組んでいます。昔の北海道池田町を思い起こさせます。自然エネルギーの開発に努めているところは高知県梼原町と同じです。

 平庭高原を経て2時過ぎに久慈の海岸に到着。国家石油備蓄基地に付設の水族館「もぐらんぴあ」は壊れたままのようです。

 近くの海岸で昆布干しをしているおばさんに会いました。津波の後も昆布の生育は順調で流れ寄る昆布を拾い集めて浜に干しているとのことです。せっかくここまで来たのだからと昆布をたくさん持たせてくれました。

 小袖海岸は岩の景観が優れています。高い岩のあちこちにスカシユリが美しい花を咲かせています。

小袖漁港で新品の船の手入れをしている漁師さんに会いました。この港では船はすべて流され粉々になったそうです。今、港は何もなかったように復活していますが船は確かにどれも新造船です。百数十万円をかけて購入し、昨年からあわび・こんぶなどの漁にがんばってきたようです。

 お話をしていてこの漁師さんが若いころに高知県室戸岬のマグロ漁船に乗っておられたと聞きました。山下巌さんの所有する「福丸」?か。久慈の水産高校を出て室戸のマグロ船に乗って大西洋で活躍したのです。室戸の様子も覚えておられます。

 宿毛の貨物船に乗った後、数年前にリタイアーして故郷に帰ったのです。

僕はもうすっかり嬉しくなりました。中川豊さん。60歳になられたとか。一緒に写真をとらせてもらいました。

福丸の船長は「福岡さん」だったといいます。僕の同級にも福岡くんは二人もいるなあ。いつの日か、奥さんと一緒に室戸に来てくださいとお願いをしました。行きたいなあとおっしゃってくれました。