昨年11月から正月休みを経てきょうまで、
物凄い数の映画を観ている。
このweb日記でレビューや感慨を書いてる
のはほんのごく一部だ。
一部にさえならない。一部のイの字の発声
で息を吐く前の段階のレベルだ。
ビデオもDVDもこの世に無い時代の高2
の時、元早大ブントの映画好きの担任に
「年間200本は観ろ」と言われた。教壇
で。
観たね。フィルムセンターまで駆使して。
で、仲間と映画も作った。
高校生が面白い作品作ってる、と話題に
なって、東大の五月祭で学祭中に上映され
てた。貸し出してくれとのことで貸し出し
をした。
自分らの学校では、文化祭での学内上映に
学園当局からストップがかかるようなら、
バリケード築いてピケ張って上映するつも
りだった。製作者たちは全員腹くくって
いて、内申書ゼロ、下手すりゃ機動隊導入
されてドンパチで退学だろうから、大検を
取って試験のみで大学に行こうとしてい
た。
実際のところ、圧力も弾圧もなく、映画
製作者たちは、3年の時に都内の「難関」
と世間ではいわれる大学に軒並み現役合格
した。
私は高校時代は過激派セクトではなかった
が、メンバーにはセクトの高校生組織の奴
もいたりした。
私は演出とシナリオの一部を担当した。
高校2年当時の私の年上の彼女(看護師)を
ある回想シーンで出演させた。
実存主義映画だ。
題名はフェリーニから少々拝借した。
その鎌倉へのロケハンで記憶に残っている
事がある。スタッフIと方法序説について
列車内で議論していた。
その時の事を指して、後日、原宿表参道の
青山通り近くの古い喫茶店で彼女が言うの
だ。
「貴方たち、いつもあんな話ばかりして
いるの?」と。
私は「え?そんなことないよぉ〜ん」と
言って笑った。
しかし、彼女は「嘘。いつもバイクと音楽
の話しかしない人だと思ってた。でも、
やっぱり私には姿は見せていないのを知っ
た」と言う。
まるで、我々の作品で描きたいテーマその
ものを突かれた思いがして、言葉に詰まっ
た。実存は本質に先立っていた。
太陽は眩し過ぎることはなかったのに。
眩しいなら、サングラスすりゃいいだろ、
バカめ、てなもんで。サングラスが無けれ
ば目を閉じよ、たわけ、てなもんで。
世の中は複雑ではなく、存外、真実の真理
はそんなもんだ。
でもって映画だ。
今、このペースで観てると、高2の時の3倍
近く行ってしまう。休みの日などは8本以上
観てるのだから。
良いのもあるが、アクション映画がかなり
つまらない。
とにかく、銃撃シーンや殺人シーンをリア
ルに視覚的に描くことのみに終始している
映画が最近やたらと多すぎるからだ。
パン!と銃で脳天撃ったら後部が吹き飛ぶ
映像とか、爆破で人体が肉塊になる描写
とかさ。
そりゃ、実際にはそうなのだけど、観続け
ているとPTSDになりそうだ。ならないけ
ど。本物の現実の戦争や殺し合いとは違う
から。本物は絵にはならない程に汚い。
視覚的にも、何もかもが醜(みにく)い。
本物のPTSDではない、疑似PTSDとも
いう新種のPTSDになりそう、という話。
これね、あんまし、映像作品としては良い
方向性に向かっていないと思うんだよな
あ。
結局、騎兵隊が登場せずに乳母車が階段
から転がるだけだからつまんない、という
ような脳の構造になりかねない。
なんでもかんでもリアルに映像描写すれさ
えすればリアリズムだ、というような作品
風潮は、私は質が高くはないと思うよ。
『灰とダイヤモンド』と『許されざる者』
がどれだけ「映画」として素晴らしいかを
映画人は今一度噛みしめるべきではないの
かなあ。
あ、『許されざる者』は、邦画ではなく、
イーストウッドのね。
邦画の同題名の作品は、ちとしどすぎた。
まあ、日本映画の実力だろう。
ここんとこで唸らされた映画は邦画の
『泥の河』だった。
久しぶりに観たが、ほんとに良い写真を
撮る。名作だと思う。
学生時代に観た時のあの驚愕の感情が蘇っ
た。私に映画の世界に進むことを諦めさせ
た映画作品だ。
「おまえは百年経ってもこの映画を撮る事
などはできない」
『泥の河』は、私の中の私が私に完膚なき
まで私を叩きのめすように言った作品だっ
た。
映像作品は怖い。
それは、残された映像は決して朽ち果てな
い不朽性、永遠の命を持っているからだ。