渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

革ジャン改造

2021年02月28日 | open





チャイニーズ・ガーバーの逆襲

2021年02月28日 | open


中国産ガーバーの逆襲。
だが、既に売り切れ続出。



警視庁の絵師

2021年02月28日 | open












絵に注目か(笑

客引きは違法行為だが、客引きをする
店はほぼ全部がぼったくりの違法店だか
らね。昔からあったけど。
ヘルプコール来た後輩は、1杯のコーヒー
で5万円請求されたりとかさ。80年代の
事だけど。
今だと、酒飲んだりすると、30万円位か
しらね。
仕事の知人で、ビール2本で55万請求され
た人知ってる。
払っちゃったってさ。あかんやん。
つか、ぼったくり店には行かないに限る。
おねーちゃん使わないボッタ店もあるの
で、繁華街では要注意。

内ポケット

2021年02月28日 | open





孟宗竹

2021年02月28日 | open
 
丸太のように太い孟宗竹が高く聳えて
る。
この手の竹林に入って、木刀で打って
みた事
がある。
拍子木のような甲高い音がした。
日本刀では絶対に切れないと思った。
 
ノコギリの出番ですね(笑

報道にみる非日本的で非常識な言葉使い

2021年02月28日 | open


「眞子さまら」ですって。「ら」ですと。
根本的に国語である日本語の使い方を
間違っていますね。
最近、こんな程度の感覚の連中ばっか。
マスコミらは。

横浜の風景

2021年02月28日 | open
私がよく知る横浜の風景。
子ども時分に育った場所だ。
写真では平坦に見えるが、かなり登り下り
の起伏のある場所だ。
 
現在の横浜薬科大にはボウリング施設が
あり、学生に解放されている。
19番レーンから24番レーンまで残ってい
る。かつて「ドリームボウル」だった商業
施設をそのま利用したものだ。
この23番レーンで1970年7月5日に投げた
事がある。
私は生まれて初めてのボウリングは横浜
ドリームボウルでやった。
小学生の頃の最高スコアは160台だった。
自己ベストは228で、1981年に出した。
 
1960年代末期のパンフレットから。
ドリームボウルとドリームスケート。


 
ドリームランドは今の東京ディズニーラン
ドよりも国内最大級の「夢の国」だった。
特徴は、アトラクション施設だけでなく、
各スポーツエリア等も充実した一大リゾー
トエリアとしていた点だ。
国内初の高層ホテルは21階建で、宿泊は
現在価格で1泊約50,000円〜120,000円
程。一般ホテルが1泊700円の時代だ。
ドリームランドのドーナツ大プールは、
冬場にはスケートリンクとなった。
一年中滑れた屋内リンクと併せて、どちら
も楽しめた。私などは友人たちと小学生
の頃に年中滑りまくりだった。冬場には
革ジャンを着ていたが、夏の屋内リンク
でも長袖と手袋は着用義務があった。
私や友人は靴はホッケーで、自分の靴で
滑っていた。1970年前後、ホッケー履い
てエッヂを利かせてクルクルギャンギャ
ンと滑りまくるスケート小僧たちだっ
た。
私は野球にバスケにスケートに水泳に柔道
やっていた。剣道は大嫌いだった。
他に手習で幼稚園の頃から絵画教室と
算盤塾と音楽教室(電子鍵盤楽器)に通っ
いたが、算盤勘定が大嫌いなの
算盤塾は数か月で
即辞めた。講師は
三宅裕司に
よく似ていた。
横浜ドリームスケート時代の小3〜小5が
一番スケートをやった。生まれて初めて
滑ったのは5才の時の品川スケート
リンク
だった。馬に乗り始めたのもその
頃だ。
今から半世紀前あたりは、日本のあちこち
にスケートリンクがあった。街中で手軽に
楽しめた。
このあたりは、望月三起也先生の1970年
の作品『ジャパッシュ』にも出て来る。
街の
不良中学生たちが自分のスケート靴
持って
街中のスケートリンクにたむろして
いる
様子が作品に出て来るが、それはよく
見る
街の光景だった。首都圏の街頭ではヘル
メットの大学生たちが機動隊と準内戦の
ようなドンパチを繰り広げていた時代だ。
 
広島県の福山にも屋内リンクがあり、小学
生の頃に広島県に遊びに行くたびに福山の
リンクに行った。その時は貸し靴だった
が、ホッケーが人気なのか、なかなか借り
られなかった。
福山には「教え魔」のおっちゃんがいて、
頭つるっぱげのホッケーを履いためちゃ
くちゃ上手いおっちゃんだった。
福山の巧い同世代の知らない連中とすぐ
に私は仲良くなったが、うちらも小学生
のガキながらホッケー選手のような滑り方
をしていた。だが、その福山のテカ
テカ頭
のおっちゃんの滑りは本格的で、
いろいろ
テクを教わった。それ、確実
にリンク傷むでしょ
うよ、みたいな
滑り方。
 
横浜ドリームランド跡地で、今は横浜薬科
大のスタジアムになっているあたりは、
昔も広大なグランドがあり、1970年
の秋、
遠くの園内の厩舎から馬が2頭
脱走して爆走し
回った事があった。


グランドで遊んでいたうちらは高い所に
避難した。何だか大きなケーブルの空の
ドラムの上に慌てて登った記憶がある。
ちょうどナイフでロープを切って遊んで
いた時で、肥後守をたまたま持っていな
かった友人は、コーラの瓶を割って、それ
の破片をナイフとして使っていた。埃っ
ぽい寒い日だった。もう50年以上前にな
る。


















 
横浜ドリームランドは、まさにワンダー
ランドだった。
アトラクション施設の質は現代のTDLの
ほうが遥かに現代的だが、横浜ドリーム
ランドには夢があった。50年以上前に
あっては、それは「別世界」だった。
まだ日本人が自由に海外旅行さえできな
い時代、「世界」に触れられる事ができ
た仮想空間でもあった。
今は私立大学のキャンパスとなっている。
 
この「東洋一」(笑)の観覧車が恐怖物だ
った。外のゴンドラでなく中側のね。
これ、観覧車がゆっくり回って行くと、
ゴンドラが落ちるように激走しだすんで
すよ。
その動き始めが、ギ、ギ、ギギギギゴロ
ゴロ、ギャーッ、ゴーーッ!と激走する
の。空中で。
そら、あーた、世の中、こんなヤバげで
怖いもんはありやせんでした(笑