知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~
ヒトフタヨンマル。
しろしま市内の乗り屋二人から画像だけ
送られて来た。
なに?!今そこ?
行く!
と行ってみたらもういない。しかたねーから一人で食った。モダン焼きをそばで玉子にズリ追加。 うまい。三原の地ソースの天狗ソース。
一人曰く、朝相方から連絡があり寝ぼけ
まなこで電話に出たら、家の前で待って
いた、と。
そんでお好み食いに行こうぜと誘われて
ひとっ走り。
食ったらまた即帰ったとのこと。
お好み焼き食うだけで往復160kmサクッ
とだってさ。
ハマの連中かと思っちゃったよ(笑
昨日午後に「ここのお好み焼き結構うまい
ぜ」と教えたら、24時間以内にもう行って
食ってさっと帰ってる(笑)。
あーたたち、なにもんなのよ。
三原に新しく開店した横浜中華街の「餃子
伝説」の餃子がうまいよと教えたら、2日
後には即行でもう食ってるし。
なんつー動きの早さ。
どーせ、天気いいから、大方、あしたとか
九州あたりまでサクッと行くんだろうよ。
俺と相方、二度行く所を予想されて彼ら
の一味に待ち伏せされた事がある。
現地で補足されて「え?!」みたいに。
なんだか、手管が大昔の学生時代の俺の
バイク仲間連中みたいだ。
先が見えない土手の夜霧の中ゆっくり進ん
で行ったら、突然バイク2台がテールライト
つけたまま土手道の真ん中に止まってたり
とかね。人影はない。バイクのみ2台。
俺らは「やるじゃねえか」とか言いなが
ら、「あたり警戒しろよ。突然クラッカー
とか爆竹投げてくるかも」とか言ってさ。
しろしまの奴ら、なんか似てるよ。
待てよ。
画像、今よく確認したら、やつら、暖簾
出す前に店に行ってるじゃねえか。
やられたよ。
タイムラグイリュージョンをかまされた。
キムのゲームから訓練し直さねえとな。
メール来て、消防士みたいに3分以内に
駆けつけて俺が撮った画像とは、影から
して太陽の高さも違う。送られた画像は
東から日が射してるし。
これはしたり。
きゃつらにしてやられたわ。
埼玉は秩父のうまいそば。
現在、わが情報部が突撃調査中。
途中報告。
スープも麺も味はいいが、麺の茹で方に
好み分かれる可能性あり、と。
塊くんになってたりして残念、と。
餃子はかなり美味しいとのこと。 300円。ジューシーでグー!らしい。
行列50人とのこと。
混みすぎて、もしかすると茹で方が雑に
なっているのかも。
味は良いとのことなので、なんだか惜し
い。
中津川は幼稚園の頃、何度も父に連れて
行ってもらった。
当時は魚影が濃かった。
フライフィッシングを始めるようになって
から父が珍しい物を見せてくれた。
1960年前後の日本製フライだ。
目黒の釣具屋で、当時「最近日本に入って
来たアメリカの毛鉤釣り用の毛鉤だ」との
ことで購入したらしい。
見ると、まだタイイングとか日本人は知識
が無かったのだろう。
伝統的な和式毛鉤とも異なる洋式方法で
懸命に巻いたような稚拙な毛鉤だった。
40年近く持っていたのだという。
プラケースにいくつも入っていた。
訊くと、父はフライフィッシングをやろう
と思ったが、日本にはタックルがまだ存在
しなかったのだという。
そして、輸入物などは超高価で手に入れら
れなかったのだそうだ。
まだ日本人の海外旅行が自由化されておら
ず、政府から特別な許可を得た者しか海外
に行けなかった時代。日本人が巻いた毛鉤
は、今見ると児戯のような毛鉤だ。
しかし、何か温かい。
その毛鉤は使うことなどはせずに、保管し
てある。1960年頃の洋式毛鉤。
珍しいといえば珍しい。
父と二人でフライフィッシングの釣行を
するようになったのは、20世紀末期から
だった。お互い、楽しんでいた。
渓流のマス釣りは、良い。
空気も水も、人の心も。
渓流カフェ読者の方からまたまた連絡
頂いた。
再販リリースをバッチョリと押さえて
無事確保!とのことでした。
おー!やりましたね!
写真掲載許可貰いました。
ありがとうございます。
謎の女は不二子ちゅわ〜んだが、謎の
ナイフはこのALTEMAファルコン1。
出所不明の謎のナイフ。
だが、その構造と形状たるや米軍海兵隊
御用達の某ブランドのナイフにそっくり
なのである。面白い。
しかしコピーではない。
このALTEMAはALTEMA独自のシルエット
を持っている。
野外ナイフとしては極めて優れている。
これは見つけたら即買い、かと。
一丁持っていて損は無いナイフです。
実際にキャンプ、ブックラで使ってみると
殊の外高性能でたまげた。
ナイフは薪を割る為の物ではないが、この
ALTEMAはパッコンパッコンと割れる。
おすすめ。
物がとにかく良いです。
使うと、ほぉ〜、と感心するナイフです。
可愛くて愛着湧きますよ。
お前さん、やるねえ、と。
唯一の欠点は切先が鋭利ではないこと。
そのため、刺突性は鋭利なナイフよりは
下がります。
私は研いでポイント=切先を鋭利にしま
した。
スキナーとしては使わないので、ポイント
は日本刀のように鋭利にしています。
棟のみ荒砥で押して卸した段階。
身を削いで全体的に切先を鋭利に研いだ 状態。
私の個体はフクラ部分がガタガタだった ので、物差し程まで刃引きにして刃道の
Rラインを整えて、それから地押しと刃
付けで本研ぎをかけました。
刃先はハマグリ刃のブレードにウルトラ
マイクロベベルを付けている。
軽く落とすだけでトン!と刺さるように なり申した。(一番右がALTEMA)
広島県三原市の土地は中世戦国時代末期に
海上埋め立てにより城が築かれて開発され
た。平地も平原も原もない。
上の画像の向こう岸を見て貰えば判るが、
あのような海に切り立った稜線がこの地方
の海岸線だ。広い砂浜さえ無い。断崖で
ある。
しかし、元来の目的が軍港都市であり、
背後三方を急峻な山岳に囲まれ、前面は
海のみという地形の場所にあえて作られ
た。
戦国期の軍事要塞拠点としては絶好の場所
だった。
街道は奥地の山間部を通るのみで、幹道
から10kmほど離れた岩だらけの海岸に
城下町が作られた。
戦国期、江戸期は城下町は軍事都市である
ので、険しい地形の場所に町を作ろうとも
それでよかった。
しかし、文明開花以降は不便極まりない。
道路が無いので産業と物流の拠点たり得
ない。陸路は依然として獣道のような道
しかなかったからである。
明治26年に、ようやく山陽地区に鉄道が
敷設された。
これにより、陸路は鉄の道が通った。
物資と人員の輸送が可能となった。
だが、道路は全く整備されていなかった。
三原は昭和30年代にようやく海沿いに新
たに国道が開通した。
これにより、尾道・福山の基幹都市と自
動車が通れるルートができた。それとて
無論未舗装路だ。日本全国未舗装。
しかし、三原は国道以外の山間部を抜ける
ルートは昭和戦後に至っても一千数百年前
の古代道のままだった。
三原から出雲方面に直行する道で現在の
県道25号線がある。
今でこそ、上下片側1車線の整備された
峠道だが、開通して舗装が成された昭和
40年代は、上下1車線、バスは離合でき
ず、退避エリアがいくつも路線上に設け
られていた。
1968年に初めて私が三原を訪れた時に
路線バスに乗ったが、車両離合の時は
谷底に落ちそうな程でかなり怖かった。
勿論、今のようにスーッとは走れない。
バスも自動車も時速20km/h程のノロノロ
運転でしか通れない道だった。
東京では準内戦状態の首都騒乱の時代、
地方都市の三原はそのような状況だった。
三原の地が大きく変わるのは高度経済成長
以降であり、首都圏に町のインフラが近く
なるのは21世紀に入ってからだった。
(1968年の首都東京、神田)
その三原の山肌に沿う峠道が開通する前ま
では谷底の河川沿いの道が往来として使わ
れていた。それは昭和中期まで使用された。
北に抜ける道はそれしかなかった。あとは
人が一人通れる程の獣道のような山道だけ
だ。大八車さえ通れないような。
これがその谷底の旧道だ。昭和中頃まで 使われていた。自動車の通行は不能。
恵下谷(えげだに)という。
現在はその谷の上部山あいに新道が開通 している。1970年代に山を削って複線化
された。
今でも崩落事故が絶えない路線でもある。
まだ解かれていない歴史上の謎がある。
それは、三原城が築城される以前の中世、
この恵下谷に鋳物師(いもじ)が存在した
というものがそれだ。
鋳造された寺の鐘や鋳造物にこの地の作者
銘があるものが何点か現存しているのだ。
それは、果たしてこの三原の恵下谷なの
だろうか。
嘉元(1303〜1306)年記のある灯明の台
中世当時、鋳物師たちは「大工」と自称
したようだ。
三原の海岸に城と町が登場したのは戦国
末期だ。完成は1580年前後。
それの280年程前に、この地の山間部で
鋳造製品を?
詳細は一切解明されていない。
海沿いに城も町も存在していない事だけは
確かだ。
歴史上の「三原」は、山間部に何かある。
未だに鎌倉末期から南北朝時代にかけて
の古刀(慶長以前の日本刀)正家の解説で、
正家の作刀地を「現在の三原市」とする
説明書きを見るが、妥当性を欠く。
三原市であるならば、古代山陽道沿いの
山間部でなければならないし、実際のと
ころは、現在の尾道市エリアで作刀され
た事が濃厚だ。
また、中世にあっては「三原」とは、戦国
末期に城が作られた場所ではなく、備後国
南部の広範なエリアを「三原」と称した
蓋然性が高い。
少なくとも、三原城がある場所で室町、南
北朝、鎌倉時代に刀工は刀を作れない。
海しかないのだから。
しかし、古代山陽道沿いの山間部である
ならば多いに可能性はある。
それは、木炭の供給と砂鉄もしくは製品鐵
の物流が可能だからだ。
崖下の海の場所(現在の三原駅周辺)では
刀作りどころか、人さえ住まない。
神奈川県の江ノ島の断崖の下のような場所
だったからだ。
もう一つ、歴史の上で解明されていない
謎がある。
それは、物は現存しているのに、産地が
不明の「三原鐵」と呼ばれている鋼の事
だ。
どうやら低炭素の地鉄用の錬鉄ぽいとの
鍛冶屋の見解もあるが、産地に関しては
全く特定されていない。
そのミハラテツの製造場所はどこであるの
か。
三原大工の鋳物師との関連を解くことで
何か手がかりがつかめるのではなかろう
か。
日本の大工とは今は家大工、船大工、宮
大工しか残っていない。主として建築分野
だ。
しかし、旧来、大工とは工人を指した。
寺の鐘を作るのも、土台の金属台を作る
のも大工と呼んだ。
その大工が中世中期にすでに現在の三原
山間部にいたという残存物がある。
しかし、詳細は未だ解明されていない。
三原城築城後の江戸時代、三原城下には
城の西方の西町だけで数十軒の鍛冶屋が
いた。
そのエリアは後に「かじ新町」と呼ばれ
た。
維新後は宛字で「梶新町」と記載された
が、元々は「鍛冶」であろう。
それら鍛冶屋は三原城内三の丸鍛冶屋敷
(現三原駅北口地点)にて活動した藩のお
抱え鍛冶ではなく、町の市井の鍛冶屋で
あった。
(江戸期の藩の史料から)
(維新直後の三原城)
(律令制時代の古代山陽道/黄緑線)
古代街道の特徴として、山間部の谷川沿い
に道を作ったという特徴がある。
だが、古代山陽道下りの備後国から安芸国
への境あたりは、川沿いに進まずに大きく
巻いて山岳部を通る箇所がある。
太宰府側の西から都を目指す時、約700年
後の未来に登場した仏通寺があるあたり
から、突然谷川ではなく山岳エリアに急
につづら折りの勾配のきつい山道を登って
行く。それは何故か。
(県道50号が古代山陽道)
理由は、あまりの高度差の地形のため、 川には瀑布があるからだ。
物理的に滝の脇に道は作れない。
それゆえ、滝を巻く(迂回する)ように道
が作られたのである。
熊野古道にも瀑布があるが、やはりルート
は巻いている。
(昇雲の滝/広島県三原市)